ケータイ辞書JLogosロゴ 赤平町(近代)


沖縄県>那覇市

 大正3年〜現在の町名。昭和31年からは首里を冠称。1〜2丁目がある。はじめ首里区,大正10年首里市,昭和29年からは那覇市の町名。もともと支配者層の住む町で産業というべきものもなく,衰微する一方で,昭和期には空屋敷の多いひっそりとした町となり,戸数も昭和5年には118戸に減少した(首里市制施行十周年記念誌)。同20年沖縄戦で町は廃墟と化し,戦後は一時立入禁止となっていたが,同年12月東隣の汀良【てら】町に首里の人々が住みはじめ,翌年から赤平町にも次第にテント小屋や規格ハウスと呼ぶ仮屋が建てられた。人々は町の復興に励み,次第に町らしい姿を取り戻した。儀保町と境する町の北西端に戦時中米軍の設けた給水用タンクがあり,その広場を水揚げと呼んだ。この広場は戦争で廃墟と化した首里にできた唯一の広場で,運動場のない頃の児童生徒の野球場にもなった。また米軍のキャンプで働く軍雇用員の朝夕の送迎えのトラックが何十台も集まり,軍雇用員の乗り降りのにぎわいは,昭和25年頃まで続いた。その後広場は地主の手に戻り,再び住宅地となった。この水揚げの北隣で虎瀬山から続く丘の上に,同26年セブンスデー・アドベンチスト教会が創建され,教会に属するメディカルセンターも設けられ,地域の伝道と医療に尽くした。同32年町の北裏側の虎瀬山に琉球政府立林業試験場ができ,同41年名護町名護へ移転した。世帯・人口は,昭和45年457・1,337,同52年418・1,504。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463735
最終更新日:2009-03-01




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