ケータイ辞書JLogosロゴ 糸数村(近世)


沖縄県>玉城村

 王府時代〜明治41年の村名。島尻方玉城【たまぐすく】間切のうち。「高究帳」では高頭302石余うち田199石余・畑103石余。石高は間切の筆頭で,台地の島尻マージ土壌での麦・粟の耕作も盛んであった。近世期に開発が進み,嘉慶25年(1820)には村内の大田原・佐宇次原・川田原・長田原・仁志原の湿地8,583坪を開き,産米71石余の水田とした(球陽尚灝王20年条)。また道光7年(1827)には,糸数村・富名腰村・前川村の産米135石余の田に用水路を設けるなどで,20人が褒賞された(球陽尚灝王24年条)。19世紀の中頃には,首里系の士族らが集落東方の喜良原【きらばる】に入植して,屋取を形成した。時期は未詳だが,「絵図郷村帳」に見える,あたん口村が糸数村の一部となる。ノロには,グスクノロの糸数ノロと島ノロのヤカンヌル(屋嘉部ノロ)がいて,「由来記」では糸数ノロは糸数城之嶽・糸数ノロ火の神・糸数城之殿を祭祀し,ヤカンヌルは根石城之嶽・屋嘉部ノロ火の神・屋嘉部之殿を祭祀した。なお両ノロの管掌する村は,糸数村・屋嘉部村・前川村の3か村。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。明治19年頃天然痘が蔓延し,サナン・メーバルの人々が本集落に移動したといわれる。戸数・人口は,明治13年110・461(男253・女208),同36年127・593(男313・女280)うち士族30・179。明治36年の民有地総反別168町余うち田7町余・畑79町余・宅地7町余・山林18町余・原野54町余(県史20)。同41年玉城村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463885
最終更新日:2009-03-01




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