ケータイ辞書JLogosロゴ 浦添村(近代)


沖縄県>浦添市

 明治41年〜昭和45年の中頭郡の自治体名。浦添間切沢岻・勢理客・小湾・仲西・屋富祖・城間・牧港・伊祖・仲間・前田・西原・宮城・安波茶・内間の14か村をもって成立。旧村名を継承した14字を編成。村役場は,仲間の旧間切番所に置かれた。明治42年村信用組合・小湾漁業組合創立。大正元年村教育会発足。同3年製糖優良村として琉球新報社から奨励金を受ける。同年村内で第6師団混成部隊が大規模な軍事演習を実施。同11年県営鉄道嘉手納【かでな】線が開通,内間・城間に駅が設置された。昭和5年県が野菜栽培を奨励し,昭和10年頃には120町歩を作付け,那覇の市場への野菜供給の6割を占め,大円ナス・スイカは特産品とされ,他府県へも移出した(浦添市史4)。昭和15年の米の作付面積は1期作256反・2期作252反で,収穫は合計875石。同16年村商業組合創立。明治45年の戸数2,584・人口1万1,692うち農業1万1,571・漁業30・商業8・工業58・その他25(浦添市史2)。世帯・人口は,大正9年2,480・1万1,707,同14年2,470・1万1,374。昭和元年の耕地面積は田48町余・畑1,122町余,農家2,126戸のうち所有面積1町未満1,867戸・1町以上259戸(県統計書)。同15年の戸数2,340・人口1万1,581。沖縄戦では,米軍の沖縄本島上陸直後の激戦地となり,同20年4月24日頃から5月上旬にかけて,前田高地など地域北端の高地の争奪戦が繰り返され,5月下旬日本軍が首里防衛線を放棄するまで戦闘が続いた。住民の被害は甚大で,戸数2,077・人口9,217のうち,4,112人が戦死し,469戸が一家全滅,家屋2,060戸が焼失した(浦添市史5)。終戦と同時に軍政府は村の西海岸一帯(現牧港補給地区)を強制土地収用する。同21年2月仲間に復旧設営地区が設けられ,各収容所から帰村してくる村民の受入れを開始した。同年3月には浦添初等学校が開校,校舎の一部を村役所として開庁し,仲間地区に6区,西原・前田・経塚・沢岻地区を各1区とし10区の行政区を設けたが,地籍は未分離のままだった(行政日誌)。同年7月から住民は旧居住地への移動を開始した。同年の戸数2,424・人口9,523。同22年4月から臨時戸籍事務が執られ,大半の住民が旧居住地への移動を完了するが,米軍に全域を強制収用された旧小湾住民は,同24年2月その代替地に移動。昭和22年港川・経塚・当山・大平の4字が起立。同25年に旧役場敷地内に役所を建て移転。同26年に土地所有権証明書を交付。同30年には浦添ようどれ石厨子が,琉球政府指定の特別重要文化財(現県文化財)となる。さらにようどれ英祖王陵の復元が竣工。同31年6月に軍用地問題四原則貫徹村民大会を開くが,同年11月には米軍補給部隊が具志川市天願【てんがん】から土地収用地区内に移駐。これに伴い基地建設に関連して建設・土木業が盛況を呈し,基地収入を求める人々が増加し,市街地化が進展。同34年の農家1,990戸,田9,850a・畑5万8,740a。同36年の戸数5,591・人口2万5,030,業種別就業者数は農林業1,652・水産業37・建設業328・軍雇用員1,401・鉱石採石業43・製造業258・商業415・サービス業679・公務員229・運輸通信業217・金融保険業72・その他339。同40年に近代的な新庁舎を安波茶に開庁し,同43年に浦添村都市計画が提出され,同44年には公営住宅建設が竣工し,村は急速に発展した。同45年市制施行。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463986
最終更新日:2009-03-01




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