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- 大城村(近世)とは
「大城村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 大城村(近世) 江戸期~明治8年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 大城村(近世) 王府時代~明治41年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 大城村(近世) 王府時代の村名八重山島大浜間切のうち方言ではフゥスクという石垣島南部,大浜の地にあった崇禎元年(1628)の三間切制移行で大浜間切に属した(八重山島年来記/県史料前近代1)順治15年(1658)に与人が置かれたが(球陽尚質王11年条),康煕17年(1678)に与人・目差の削減が行われた際,登野城【とのしろ】村の与人・目差の管轄になった(八重山島年来記/県史料前近代1)同20年4月の大雨で水損を被り,その夏に大浜村に合併した(同前)旧村跡は大浜のフウスク原で,フルスト原遺跡の崖下に位置し,カンドウ原遺跡と呼ばれるこの遺跡から石器・土器・外来陶磁器・鉄器・骨角器・貝器や中国古銭も出土し,17~18世紀頃のものと思われる敷石がある住居跡が発掘されたまたフルスト原の台地に石塁を築き,館を建て,大城村を中心に周辺を領有した者がいたとも想定されている(石垣市文化財調査報告書1)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 大城村(近世) 王府時代の村名島尻方高嶺間切のうち村名は「中山伝信録」「琉球国志略」に見える現在の糸満【いとまん】市域のうちに比定される高嶺間切の按司地頭を高嶺御殿,総地頭を大城殿内という(南島風土記)大城村は総地頭の名によったとも考えられ,高嶺間切の主邑屋古村のこととも思われるが,「中山伝信録」に屋古村が見えるなお,「由来記」高嶺間切与座村の項に,大城之嶽があるが,関係は未詳... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」