ケータイ辞書JLogosロゴ 奥村(近世)


沖縄県>国頭村

 王府時代〜明治41年の村名。国頭【くにがみ】方国頭間切のうち。「高究帳」には,おく村と見え,高頭77石余うち田69石余・畑8石余。古くから与論島などとの往来があり,嘉靖18年(1539)毛姓4世盛実が国頭から与論以北の島々にかけてを管轄する「自奥渡上之理」に任じられている(毛姓小宗家譜/那覇市史資料1‐7)。慶長14年島津の琉球侵入のとき,敗れた琉球兵が逃げ込んできたという(喜安日記)。ソテツの多い村で,かつて村の金城と小禄の2人が辺戸村から持ち帰ったのがはじめで,のち康煕48年(1709)・雍正3〜4年(1725〜26)の飢饉に,彼らの子である宮城・神里は,国頭・大宜味【おおぎみ】・久志・恩納【おんな】などの間切にソテツを食用として配給し,人々を救った(球陽尚敬王17年条)。雍正13年山林の盗伐・密売の取締りと,港での船改めをする勤番役の詰所が置かれたが,乾隆18年(1753)辺戸詰筆者の所管に変わった(球陽尚敬王23年条・地方経済史料9)。村の行政は奥掟のもとにあったが,奥掟は同35年から一時,楚洲村も管轄した(球陽尚穆王19年条)。御嶽にはヤハ嶽・ミアゲ森があり,奥ノロの崇べ所で,国頭間切他村の御嶽と同じく毎年四度・四品・百人御物参のとき公庫から御花米が出された(由来記)。ほかに奥ノロ火の神・神アシャギがある(同前)。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。明治13年奥港を介して,与論島と国頭間切の間に郵便物の往復が始まったが,はじめ奥間村の国頭郵便局がその事務を執り,同31年奥郵便局開設後はその管轄となった。明治12年以前は村で教員を雇い,民家を借りて筆算を教授。同28年辺戸尋常小学校奥分教場設置。同37年奥青年学校開設。同39年住民による株組織で共同店を組織した。村民は全員家族であるという協調精神を基調とし,やがて同店は集落の経済活動の主役となり,生活物資の供給所にもなるなど,相互扶助による独特な経営法によって著名になった。戸数・人口は,明治13年102・541(男258・女283),同36年146・886(男423・女463)うち士族19・121。明治36年の民有地総反別389町余うち田26町余・畑355町余・宅地4町余・原野2町余(県史20)。国頭間切で,田地面積は奥間村に次いで第2位,畑地は第1位であったが,主な現金収入は山林によるものであった。同41年国頭村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464055
最終更新日:2009-03-01




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