ケータイ辞書JLogosロゴ 嘉手苅村(近世)


沖縄県>下地町

 王府時代〜明治41年の村名。宮古島下地間切のうち。村名は「両島絵図帳」には見えない。「雍正旧記」によれば,久場嘉按司の死後,村人は離散し,村は荒れ果てたが,康煕53年(1714)に再建されたという(平良市史3)。再建には与那覇村と宮国村の人々を移住させたという言伝えがある。同年に東井・西井・おみや井の3つの井戸が掘られた。人頭税賦課の基準となる村位は,布・石とも上位(里積記/那覇市史資料1‐2)。明治12年沖縄県,同29年宮古郡に所属。戸数・人口は,明治13年113・563うち男326・女237(県史20),同26年136・706うち男359・女347(宮古島取調書/平良市史4),同36年162・788(男416・女372)うち士族27・132(県史20)。明治26年頃の開墾可能な原野の面積4町4反(宮古島取調書/平良市史4)。同36年の民有地総反別523町余うち田1町余・畑388町余・宅地14町余・山林5町余・原野112町余(県史20)。同41年下地村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464114
最終更新日:2009-03-01




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