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- 鹿川村(近世)とは
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![]() | 鹿川村(近世) 江戸期~明治11年の村名三河国幡豆【はず】郡のうち三ケ根山麓の谷あいに位置する地名の由来は,三ケ根山に発する小川が数条に分かれ,その形状が鹿の角に似ていることによるといわれるはじめ相模甘縄藩領,慶安元年頃からはその分家の旗本松平氏(松平正朝系)知行村高は,「寛永高附」「元禄郷帳」ともに106石余,「天保郷帳」134石余,「旧高旧領」120石余形原川上流の谷川に沿って水田,山の斜面に山畑が開かれ,住家もほぼ渓流沿いに集まる谷川の急流を利用した水車小屋が谷川に沿って点在し,精米・製粉などに利用された谷奥に石切場がある曹洞宗円蔵院は寛文2年の開創,もとは現在地より西方にあったが,文化7年現在地に移された神明社は,20年ごとに社殿を改築している末社に春日社・津島社・白山社・竈社などがある明治11年東幡豆村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」