ケータイ辞書JLogosロゴ 上運天村(近世)


沖縄県>今帰仁村

 王府時代〜明治41年の村名。国頭【くにがみ】方今帰仁【なきじん】間切のうち。村名は「絵図郷村帳」に見えるが,同帳の朱書きの押札に「上り絵図上下之運天村無之,運天村と一村相見得申候 御記録奉行」とあり,運天村のうちにあった。村の中心である安里集落には,ウヘイ丘陵のすそからアサトガーやフテンマガーの泉が湧出し,御嶽のオミヤ近くにアナガーモーという広場がある。運天港へ向かう陸道には,かつて天底【あめそこ】村からのナカミチと,仲宗根村・勢理客【せりきやく】村からの宿道があり,ギマラ(現ワルミ集落の北)で合流してエーガー集落の北を通って,安里集落を通り抜けていた。この沿道に集落が形成され,現在でも松の茂る丘が往時をしのばせる。咸豊8年(1858)山敷憔悴により,大工又1万7,000坪が,4年間開地作職御免となる(地方経済史料9)。拝所に上運天之嶽・ウケタ嶽・神アシャギがあり,島センコノロの崇べ所(由来記)。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。屋取として,上運天村の南,運天水道に面する海岸台地上にワルミ集落が形成された。戸数・人口は,明治13年133・614(男324・女290),同36年163・899(男463・女436)うち士族39・274。近世末から台地・丘陵地の開発が進み,明治36年の民有地総反別151町余うち田11町余・畑62町余・宅地9町余・山林45町余・原野22町余(県史20)。同41年今帰仁村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464157
最終更新日:2009-03-01




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