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- 川平村(近世)とは
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![]() | 川平村(近世) 江戸期の村名安芸郡のうち馬路中ノ川下流域に位置し,山に囲まれた地源平合戦の頃,川平兵衛守平義貞が家臣小松・山本・村岡・西村・中屋・山下らを連れて落ちのびて土着し,土地を開拓したことに始まると伝えられる(馬路村史)天正15年の安田荘地検帳の東川村のホノギに「川平名本ヤシキ」と見え,屋敷の面積は15代で「助衛門居」と記される江戸期には馬路村の小村川平と宿ノ谷からなる土佐藩領村高は,寛永地検帳4石余(南路志),寛文7年の郷村石付では馬路のうちとして同高,「元禄郷帳」6石余,寛保3年の郷村帳でも同高,「天保郷帳」では安田村の枝郷として14石余明治3年の郷村帳では馬路677石余のうち「土佐州郡志」によれば,馬路村の小村川平と宿ノ谷として見え,戸数は川平2・宿野谷3寛保3年の郷村帳では,戸数7・人数28(男16・女12),猟銃2,牛5「南路志」では安田のうちとあり,地内に寺社はなかった馬路村の庄屋・老(年寄)のほか川平・宿ノ谷・東川・中ノ川を管轄した名本によって支配され,村方総代として総組頭が1人設けられた安政4年の馬路村風土取縮差出控(馬路村役場蔵/県史民俗資料)によれば,当村内の川平は宿ノ谷から北東に8~9町余隔たり,その規模は東西1町余・南北2町半,家数6,井関1宿ノ谷は中ノ川村から北に13~14町余隔たり,その規模は東西30間・南北2町余,家数3 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 川平村(近世) 江戸期~明治8年の村名豊後国速見【はやみ】郡八坂【やさか】荘のうち高山川の上流右岸の山間に位置する文禄4年前田玄以領,慶長元年杉原長房領,同4年中津(のち小倉)藩細川領,寛永9年木付(のち杵築)藩小笠原領,正保2年から同松平領元和8年の「小倉藩人畜改帳」では木付上庄に属し,長岡興長知行地村高は24石余,家数3・人数9,牛1「正保郷帳」では上庄村のうち「見稲簿」18石余,「天保郷帳」「旧高旧領」35石余文久3年の田1町8反・畑3町2反,5歳以上の人数27(工藤家文書)細川領時代は森永手永,延宝7年八坂手永,文化元年八坂郷のうちとなり,岩屋組に属した天保以後に国東【くにさき】郡安岐郷より速見郡八坂郷に編入されたもので,それ以前の支配については不明である川平村は城下から城ケ谷峠へと通ずる道に近く,岩屋村の西方の深い谷をはさんで,山の急斜面と谷底のわずかの平坦地に集落を作っていた自然の湧き水や小さい溜池の水を利用して水田を開き,米作と七島藺を主要な農作物としていた農間余業に七島表(畳表)を織った東山神社は岩屋組の神社であるが,弘安7年にこの地の地頭職であった岩屋河内守頼親が創建したという明治4年大分県に所属同8年筒木・尾迫村を合併同年岩屋村と合併して岩谷村となる現在の杵築市大字岩谷のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 川平村(近世) 江戸期~明治8年の村名河平とも書く豊後国大野郡野津院のうち大野川の支流吉田川上流右岸に位置する文禄3年福原直高領,慶長2年太田一吉領,同5年からは臼杵【うすき】藩稲葉領吉岡組に所属村高は慶長2年82石余,村位は下(野津院御検地帳)「正保郷帳」145石余,うち田86石余・畑58石余,吉岡村の村高を合わせたものか「見稲簿」82石余,「天保郷帳」84石余,「旧高旧領」82石余鎮守は愛宕神社・天神社明治4年大分県に所属同8年吉岡村・篠枝村・一ツ木村と合併,吉田村となる現在の大野郡野津町大字吉田のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」