ケータイ辞書JLogosロゴ 宜野座村(近世)


沖縄県>宜野座村

 王府時代〜明治41年の村名。国頭【くにがみ】方金武【きん】間切のうち。「高究帳」では高頭139石余うち田72石余・畑66石余。脇地頭は,首里士族の松氏宜野座家であったと伝える。拝所に,ヨリフサノ嶽・宜野座ノロ火の神・神アシャギがあり,宜野座ノロの祭祀(由来記)。宜野座ノロは,古知屋村の祭祀も管掌した(同前)。道光20年(1840),当時村のあった古島は,宜野座福地川の蛇行する場所にあって風水上好ましくないとして,古島に根屋だけを残して南方300mの地に集落を移動したという。林業が盛んだったらしく,山奉行が国頭山地の分水嶺から村の駕籠に乗って,巡見したという口碑がある。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。明治13年宜野座掟の役俸は米1石余・雑穀2石余(県史12)。同33年惣慶【そけい】村から小学校が移転し,宜野座尋常小学校となる。戸数・人口は,明治13年91・442(男226・女216),同36年122・652(男324・女328)うち士族61・356(県史20)。士族人口が半数以上を占め,その中には御冠船踊の歌者屋比久親雲上孟学や,御座楽の宇座親雲上徳紀がいた。また,明治24年にはスンカー(寒水川)芝居の渡久地武恭らが移住してきて,旧暦8月の村踊に,チョンダラー(京太郎)の芸を伝えた(故里は語る)。明治36年の民有地総反別172町余うち田13町余・畑91町余・宅地5町余・山林13町余・原野46町余(県史20)。同41年金武村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464207
最終更新日:2009-03-01




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