ケータイ辞書JLogosロゴ 具志頭間切(近世)


沖縄県>具志頭村

 王府時代〜明治41年の間切名。島尻方のうち。具志頭郡とも書く(旧記・球陽)。「絵図郷村帳」では具志上間切と見え,仲座・玻名城【はなしろ】・安里・具志頭・上・やふそ・よりたちの7か村。「高究帳」でも具志上間切と見え,合高829石余うち田373石余・畑456石余。東風平【こちんだ】間切との間で境界の変更があり,また村名の改称や新村設立・廃村などがあった。「由来記」では仲座・玻名城・安里・具志頭・与座・新城【あらぐすく】・座嘉比の7か村となり,明治期に至る。なお,「中山伝信録」などには喜納村が見える。両惣地頭持ちの間切で,按司地頭は万暦年間(1573〜1619)から乾隆年間(1736〜95)まで小禄家が継承した(向姓大宗家譜/那覇市史資料1‐7)。総地頭は,雍正6年(1728)蔡温が任じられた(蔡氏小宗家譜/同前1‐6)。近世後期には疲弊して,咸豊11年(1861)王府の御手入が行われ,その時の具志頭間切御手入日記がある(地方経済史料9)。拝所には,御嶽9・殿22・ノロ火の神3があり,3人のノロが祭祀にあたった(由来記)。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。明治初年座嘉比村が安里村の一部となる。具志頭村・新城村などに屋取が形成された(各町村字並屋取調)。土地整理により新村ができ,明治36年からは仲座・玻名城・安里・具志頭・与座・新城・港川(もとは具志頭村の一部)の7か村となる。戸数・人口は,明治13年746・3,284(男1,711・女1,573),同36年972・4,829(男2,405・女2,424)うち士族185・993。明治36年の民有地総反別1,091町余うち田71町余・畑745町余・宅地58町余・山林77町余・原野131町余・雑種地6町余(県史20)。同41年島嶼町村制により自治体の具志頭村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464266
最終更新日:2009-03-01




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