ケータイ辞書JLogosロゴ 城間村(近世)


沖縄県>浦添市

 王府時代〜明治41年の村名。中頭【なかがみ】方浦添【うらそえ】間切のうち。「高究帳」では高頭515石余うち田206石余・畑308石余。冊封使渡来時に,薩摩の在番奉行以下役人が隠れた館舎があった(支那冊封使来琉諸記/浦添市史2)。乾隆20年(1755)館舎が修造された。尚灝王は別荘(城間御殿)を設け,道光7年(1827)病気を理由に同所に隠居した。同12年から同13年まで,琉球古典音楽野村流の創始者野村安趙が,城間御殿で晩年の王を慰めた(毛姓小宗家譜/那覇市史資料1‐7)。拝所にコバ森・アマカケノ森・古重嶽・波平森・屋富祖カマノ嶽・城間ノロ火の神・内原之殿があり,城間ノロの祭祀(由来記)。古重嶽は,航海中に溺死した羽地ノロを葬ったところといわれる拝所で(遺老説伝),明治30年代まで雨乞行事が行われた(浦添市史4)。明治6年の城間親方の作得は13石余(県史14)。同12年沖縄県,同29年中頭郡に所属。明治13年の城間掟の役俸は米1石余・雑穀2石余,城間ノロの役俸は米にして4石余(県史12)。同26年の「石高村別台帳」では百姓地391石余・請地48石余・仕明地19石余で計459石余,惣頭は344人(浦添市史2)。同31年9月砂糖樽検査所設置(県史16)。同34年村の地先海面で操業していた豊見城【とみぐすく】間切漁民と城間村民の間で,漁区をめぐっての暴行事件が起きた(浦添市史2)。同35年には外来種のスイカを試験的に栽培し,好成績をあげた。同37年,白下糖視察のため,農商務省九州支場長が来村(同前)。戸数・人口は,明治13年322・1,532(男769・女763),同36年388・1,865(男995・女870)うち士族12・69。明治36年の民有地総反別252町余うち田18町余・畑169町余・宅地10町余・山林25町余・原野28町余(県史20)。同41年浦添村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464272
最終更新日:2009-03-01




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