ケータイ辞書JLogosロゴ 城間(近代)


沖縄県>浦添市

 明治41年〜現在の字名。はじめ浦添村,昭和45年からは浦添市の字。明治42年に地震が起こり,地内東方の拱橋が破損。大正6年漁業組合設立。同11年には県営鉄道嘉手納【かでな】線が那覇〜嘉手納間に敷設され,城間に駅を設置。近隣からもサトウキビなどの農作物が搬出され,にぎわいを呈した。明治中期から大正期までは字を10番組に区域割し,順に池・仁・産・清・伍・陸・識・鉢・久・重の文字を,各区に所在する男性名に冠するのを慣例にしたという。大正14年の戸数379・人口1,671,農家戸数354のうちサトウキビ栽培農家262,耕地面積は田13町余・畑164町余。同15年の県外移民者183人うち海外146人・他府県37人(浦添市史2)。昭和9年の農家戸数362うち専業342・兼業20で,産糖高は,黒糖4挺・白下糖3,643挺,白下糖産出は村内一,黒糖は最下位(浦添案内)。同20年の戸数278・人口1,155だが,沖縄戦では425人が戦死,55戸が一家全滅した(浦添市史5)。戦後,居住区のある地内西側一帯が米軍に強制収用され,同22年旧県道東地区の小字春川に集落を移動し,基地(現牧港補給地区)建設に伴い商業地域として発展。同年一部が港川となる。同37年水道課臨時庁舎を開設。同39年には琉球政府立法105号(土地調査法)により,字境界などの土地測量が実施される。同49年に東側一帯が土地区画整理地区として認可され,市街化が著しく,住宅が増加。世帯・人口は,昭和45年1,142・5,637,同52年1,585・5,746。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464273
最終更新日:2009-03-01




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