国仲村(近世)
王府時代〜明治41年の村名。宮古島,はじめ伊良部島,崇禎元年(1628)からは下地【しもじ】間切のうち。「両島絵図帳」には伊良部島国中村と見え,高112石余。人頭税賦課の基準となる村位は,布上位・石下位(里積記/那覇市史資料1‐2)。乾隆2年(1737)には池間島池間村の住民を当地に移住させ,与人・目差を置いた(球陽尚敬王25年条)。「与世山親方宮古島規模帳」では,伊良部島の海垣を同島5か村に管理させ,国仲村は下地東崎から不か浜まで2,732間を管理した。同帳によれば,引潮のときに下地島へ渡って耕作していたという(平良市史3)。また,下地島に牛馬の放牧地を有していた(宮古嶋記事/平良市史3)。同36年の明和の大津波では多大な被害を受け,耕地を失ったため,宮古島の宮国村などに住民を移住させた(球陽尚穆王20年条)。同43年の口上覚では,この頃村の貢租未進は392石余に及び,干潟での製塩,馬牧のうち8万5,374坪を借地して畑作するなど,復興に努めている(白川氏家譜正統/同前)。明治12年沖縄県,同29年宮古郡に所属。戸数・人口は,明治13年65・254(男113・女141),同36年79・401(男213・女188)うち士族33・170。明治36年の民有地総反別333町余うち田3町余・畑183町余・宅地6町余・原野140町余(県史20)。同41年伊良部村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464286
最終更新日:2009-03-01