ケータイ辞書JLogosロゴ 来間村(近世)


沖縄県>下地町

 王府時代〜明治41年の村名。宮古島下地【しもじ】間切のうち。「中山世譜」には琉球三十六島の1つとして,姑李麻が記されている。「両島絵図帳」では,くれま村と見え,石高は66石余。人頭税賦課の基準となる村位は,布上位・石下位(里積記/那覇市史資料1‐2)。咸豊9年(1859)仲宗根仁屋など5人が村のために尽くして,首里王府から褒賞された。その頃,村は疲弊し,貢租も滞っていたが,仲宗根仁屋など5人は,熱心に百姓を導き,督励して農事に努め,以後は凶年であっても貢租は完納するようになった。さらに滞納していた20石1斗余を,小麦や大豆などをもって完納した。また,苧藍を栽培して衣服の用に備え,ソテツ2,180株を植えて救荒作物として備えた(球陽尚泰王12年条)。明治12年沖縄県,同29年宮古郡に所属。明治28年下地小学校の分教場が設置された。戸数・人口は,明治13年47・178うち男85・女93(県史20),同26年51・199うち男100・女99(宮古島取調書/平良市史4),同36年57・237(男118・女119)うち士族1・6。明治36年の民有地総反別272町余うち畑97町余・宅地3町余・山林6町余・原野165町余(県史20)。同41年下地村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464307
最終更新日:2009-03-01




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