ケータイ辞書JLogosロゴ 古宇利村(近世)


沖縄県>今帰仁村

 王府時代〜明治41年の村名。国頭【くにがみ】方今帰仁【なきじん】間切のうち。「海東諸国紀」に見える「郡島」は屋我地島(名護市)に比定されている。のち,「郡島」に移住する者が増えてからは,「郡島」は屋我地島,沖ノ郡島は単に郡島と呼ばれるようになったという(南島風土記)。慶長14年島津侵入の際の「琉球渡海日々記」には「コホリ」,「絵図郷村帳」では沖ノ郡島,「由来記」で郡村,「当時用候表」で古宇理村,「球陽」では古宇利村と見える。また,明治期の「最寄郵便役扱所地名」では「コイ」村と読まれ,ペリー遠征隊の作製した沖縄本島地図に見える「Koui」の表記に通ずる。「高究帳」では沖之郡島と見え,畑のみ85石余。地頭代は古宇利(フィ)島が采地として与えられたため,地頭代の出た家にはフィヤーやメーフィヤーという屋号がある。石高は小さい村であったが,雍正8年(1730)の重出米畑方は149石余(地方経済史料10)。島の最高部,標高100m余の地点にトューミャーと呼ばれる灯台があり,古宇利島が航海の重要な目印となっていた。また通過する船などを監視し,辺戸【へど】・今帰仁城とを結ぶ,烽火による情報伝達の中継地点として利用された。近世末期には外国船などの通航が頻繁になり,道光26年(1846)古宇利村から2,3里程の洋上に異国船が到来したが,オランダ船らしいとしている(球陽尚育王12年条)。拝所には,中嶽・サラ嶽御イビ・カマニシ嶽御イビ・郡ノロ火の神・神アシャギがあり,郡ノロの祭祀(由来記)。郡ノロは,与那嶺村・兼次村の祭祀も管掌した(同前)。中嶽は,中森【なかむい】御嶽とも呼ばれる。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。明治期になり移住した士族などにより島の頂上部と北側に,ウイバル(上原)・シチャバル(下原)の屋取が形成され,畑地面積も拡大した。明治23年古宇利簡易小学校創立,同26年5月天底尋常小学校古宇利分校,同年12月からは古宇利尋常小学校となる(今帰仁村史)。戸数・人口は,明治13年123・539(男286・女253),同36年131・650(男318・女332)うち士族8・60。明治36年の民有地総反別285町余うち畑123町余・宅地7町余・原野153町余(県史20)。同41年今帰仁村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464329
最終更新日:2009-03-01




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