ケータイ辞書JLogosロゴ 座喜味村(近世)


沖縄県>読谷村

 王府時代〜明治41年の村名。中頭【なかがみ】方読谷山【ゆんたんざ】間切のうち。「高究帳」では城【ぐすく】村と見え,高頭256石余うち田21石余・畑234石余。座喜味村は読谷山間切の主邑とされてきた。「中山伝信録」の村名では,「読谷山,亦称座喜味」と見え,読谷山間切総地頭も座喜味親方と称している。康煕48年(1709)上地親雲上は,米222石余を,同52年に米粟90石・小黒豆37石を,食料として飢民に無利息で貸与している(球陽尚敬王元年条)。道光10年(1830)座喜味村伊幾武当原の荒地に水道を通し水田6,403坪を開き,慶佐間川に堤を構築して掟田原・前田原に水を引き,渡具知村池原筑登之ほか27名が賞された(球陽尚灝王27年条)。このような大規模な開発に出費しうる豪農が存在していたことを示す。読谷山按司の田荘跡をウドゥン(御殿)アッタイと呼び,隣の丘の上には地頭火の神がある。座喜味ノロは,上地【うえち】村・波平【なみひら】村の祭祀も管掌した。拝所は,座喜味城内に5か所,ほかにタインノ嶽・シラシ嶽・座喜味ノロ火の神・座喜味之殿(由来記),ユーシジヌ御嶽・カニマン御嶽がある。小字城原に道光23年(1843)に座喜味親方盛普が寄進した灯籠型の石柱がある(県文化財調査報告書69)。明治12年沖縄県,同29年中頭郡に所属。屋取に,東シナ海に面する都屋【とや】がある。戸数・人口は,明治13年250・1,190(男590・女600),同36年310・1,484(男753・女731)うち士族6・34。明治36年の民有地総反別474町余うち田16町余・畑265町余・宅地15町余・山林164町余・原野11町余(県史20)。この当時,戸口は読谷山間切中第3位,民有地総反別では第1位の大村である。同41年読谷山村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464390
最終更新日:2009-03-01




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