ケータイ辞書JLogosロゴ 佐和田村(近世)


沖縄県>伊良部町

 王府時代〜明治41年の村名。宮古島,はじめ伊良部島,崇禎元年(1628)からは下地間切のうち。古くは,にし村と記され,「両島絵図帳」では伊良部島にし村と見え,高19石余。作和田とも書く(球陽)。はじめ佐和田元島のパナムツ(遠見台)辺りにあったが,耕地と豊かな水源を求めて次第に南西の低地に移動し,明治期になって現在地に定着した。人頭税賦課の基準となる村位は,布上位・石中位(里積記/那覇市史資料1‐2)。乾隆31年(1766)人口2,000人余となり,長浜村を分村(球陽尚穆王15年条)。「与世山親方宮古島規模帳」では,伊良部島の海垣を同島5か村に管理させ,佐和田村は佐和田村前船家から竹平まで3,331間を管理した。同帳によれば,引潮のとき下地島に渡って耕作していたという(平良市史3)。また下地島に,牛馬の放牧地を有していた(宮古嶋記事/平良市史3)。同36年の明和の大津波では多大な被害を受け,耕地を失ったため,宮古島の宮国村などに住民を移住させた(球陽尚穆王20年条)。乾隆35・36年の上納などの未進高は916石余となったが,同39年には皆納した。またこの時,明和の大津波で破損した下地島との間の佐和田矼を修復した(白川氏家譜支流/平良市史3)。御嶽には嵩平御嶽,井戸に,こ屋井・む中井・佐和田井がある(雍正旧記/同前)。明治12年沖縄県,同29年宮古郡に所属。戸数・人口は,明治13年170・696(男345・女351),同36年194・980(男503・女477)うち士族111・400。明治36年の民有地総反別852町余うち田6反余・畑296町余・宅地9町余・塩田3町余・山林3町余・原野264町余・雑種地273町余(県史20)。塩田は,宮古地方の村々のうちで最も広く,製塩業が当時から重要な産業になっていた。同41年伊良部村の字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464417
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ