ケータイ辞書JLogosロゴ 下里村(近世)


沖縄県>平良市

 王府時代〜明治41年の村名。宮古島,はじめ平良【ひらら】間切,のち砂川【うるか】間切のうち。「両島絵図帳」には平良間切新里村と見え,高541石余。人頭税賦課の基準となる村位は,布・石ともに上位(里積記/那覇市史資料1‐2)。平良四箇の1つで,蔵元は下里・東仲宗根両村境の西方,漲水御嶽の前にあった(雍正旧記/平良市史3)。18世紀中頃までに西里村を分村したと思われ,蔵元は西里村のうちとなる。同治13年(1874)当時,人口が多くなり,住民は遠方所々に居住していたという(忠導氏家譜正統/平良市史3)。明治12年沖縄県,同29年宮古郡に所属。明治12年に廃藩置県の処遇に反対して起こったサンシー事件で,警視派出所の通弁兼使丁の下地利社がなぶり殺された。下地は下里村の出身。彼の墓は現在西仲宗根にある(県文化財調査報告書69)。戸数・人口は,明治13年606・2,684(男1,372・女1,312),同36年661・3,046(男1,537・女1,509)うち士族507・1,769。明治36年の民有地総反別647町余うち畑483町余・宅地34町余・山林7町余・原野121町余(県史20)。同41年平良村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464454
最終更新日:2009-03-01




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