ケータイ辞書JLogosロゴ 当山村(近世)


沖縄県>玉城村

 王府時代〜明治41年の村名。島尻方玉城【たまぐすく】間切のうち。「高究帳」では高頭147石余うち田117石余・畑29石余。時期は未詳だが嶺村の一部が当山村のうちとなる。乾隆35年(1770)当山・志堅原・富里【ふさと】・奥武【おう】4か村の百姓地209石余の田に,富里村の仲栄真川・同村の屋武多川・当山村の赤嶺川から用水を引いたところ,同42年までの7年間水旱がなかった(球陽尚穆王26年条)。また嘉慶21年(1816)には,地頭代仲井真親雲上・夫地頭嶺井親雲上らが私財を投じて,泉を掘り溝をうがち水道を通し,屋嘉部村・当山村の39石余の天水田に水を引いて褒賞された(球陽尚灝王13年条)。拝所には,当山ノロ火の神・安次富之殿・赤嶺之殿・嶺井之殿があり,当山ノロの管掌(由来記)。当山ノロは,ノロの御名付所である上栄田之嶽(富里村)をはじめとして,当山村・富里村・志堅原村の祭祀を管掌した。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。戸数・人口は,明治13年39・187(男95・女92),同36年48・207(男108・女99)うち士族3・17。明治36年の民有地総反別75町余うち田12町余・畑34町余・宅地3町余・山林5町余・原野18町余(県史20)。同41年玉城村の字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464696
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ