ケータイ辞書JLogosロゴ 仲泊村(近世)


沖縄県>恩納村

 王府時代〜明治41年の村名。はじめ中頭【なかがみ】方読谷山【ゆんたんざ】間切,康煕12年(1673)からは国頭【くにがみ】方恩納【おんな】間切のうち。「絵図郷村帳」では読谷山間切中泊村と見え,「由来記」では恩納間切仲泊村と見える。仲泊が村として認められるようになったのは,17世紀末頃と思われる。仲泊貝塚に接したティラ岡の台地に発生した集落が,近くの東側海浜地に移り(古島と呼ぶ),時代は未詳だが津波の被害を受けて,海浜の砂州上に立地する砂丘地であった現在地に移動した。西宿(官道)が通過し,地形的にも東宿と結ばれた仲泊は,人工の船泊を掘り,とりわけ近世以降は海陸交通の要地であった。交通業者も多く,沖縄本島西海岸の村はもちろん,東海岸の村々の生産物も,地峡を越えて仲泊港に集まった。これらの物資は山原【やんばる】船で那覇【なは】方面に運ばれた。港には常時10隻内外の船が出入りした。船の進水式は山田ノロと富着根神などの白衣の神女がウムイを唄いながら,新船を7回巡り,その後酉年生まれの男が船上に乗り,綱で海中に引き込んだ。道光4年(1824)に中国の福建省泉州府の唐人6人が漂着したが,5人はすでに死亡していた(中山世譜)。その墓碑が残る(県文化財調査報告書69)。交通業者が繁栄する一方で,貢米に差し支え,村周辺の良田をひそかに売却したこともあった。咸豊4年(1854)頃の諸上納物割付定では,恩納間切合計300人のうち仲泊村46人である(地方経済史料9)。「由来記」に御嶽の記載はなく,村の祭祀は富着【ふちやく】村・前兼久村の祭祀に加わるのが通例であった。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。戸数・人口は,明治13年77・489(男231・女258),同36年95・547(男270・女277)うち士族5・24。明治36年の民有地総反別104町余うち田10町余・畑29町余・宅地3町余・山林47町余・原野13町余(県史20)。同41年恩納村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464792
最終更新日:2009-03-01




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