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沖縄県>浦添市

 明治41年〜現在の字名。はじめ浦添村,昭和45年からは浦添市の字。昭和40年までは村役所所在地で,行政の中心地として栄えた。明治42年浦添信用組合事務所設立。大正7,8年頃に竜福寺の建造物が競売され,島尻郡兼城【かねぐすく】村に移設。同9年に柳田国男が浦添城跡を来訪。昭和2年に鎌倉芳太郎が訪れ,地内の各拝所を踏査し,さらに同11年には浦添城跡を調査した。昭和9年の農家戸数151ですべて専業,産糖高は黒糖1,207挺・白下糖262挺(浦添案内)。同10年浦添尋常小学校校舎の一部を鉄筋コンクリートに改築,同16年浦添国民学校と改称。同19年には日本軍が兵舎として国民学校を使用。同年浦添国民学校の学童・教員・家族計130人が宮崎県へ疎開。同20年の沖縄戦当時の経塚・当山の集落を除く戸数125・人口503,うち一家全滅41戸,278人が死亡した(浦添市史5)。同21年,軍政府は浦添村民の仲間地区への復帰を許可。浦添郵便局を開局,さらに学校校舎の一部に村役所を開庁。同22年一部が経塚・当山となる。同27年に浦添城跡内に戦没者慰霊の浦和の塔が建立される。同28年浦添中学校開校。同30年浦添ようどれ英祖王陵の復元竣工祭,さらに同31年には浦添ようどれ尚寧王陵の復元祭も執り行われた。同年城跡に伊波普猷霊園が造営された。同34年の戸数165・人口877,うち農家128戸,田530a・畑3,900a。同40年村役所が安波茶に移転。同46年仲間郵便局開局。昭和43年から茶山に団地の造成が始まる。同49年に市民会館完成。昭和53年に浦添小学校校舎の全面改築工事開始。同57年に浦添城跡発掘調査が始まり,住民も協力した。同年,浦添大運動公園の造成を開始。世帯・人口は,昭和45年271・1,181,同52年577・2,348。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464802
最終更新日:2009-03-01




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