ケータイ辞書JLogosロゴ 野里村(近世)


沖縄県>嘉手納町

 王府時代〜明治41年の村名。中頭【なかがみ】方北谷【ちやたん】間切のうち。村名は「絵図郷村帳」などに見えず,「由来記」に見える。康煕33年(1694),再検地願いにより野里村を含む3か村が,高奉行の検地を受けている(翁姓大宗家譜/那覇市史資料1‐7)。雍正13年(1735)の重出米の高は,北谷里主所畑方11石余・野里里主所同39石余・野里掟同9石余・百姓持同226石余・仕明同6斗余で,合高287石余(地方経済史料10)。野里・野国・砂辺の村民は,毎年2・3月中の吉日を選び,中国から蕃薯を持ち帰った野国総官の墓を祀り,豊作を祈願した(球陽尚寧王17年条)。拝所には,ヨシノ嶽・カデカスノ嶽・野里ノロ火の神・野里之殿・西之殿・東之殿があり,野里ノロの管掌で,野里ノロは屋良村の祭祀も司った(由来記)。のちに野国ノロが廃され,野里ノロは野国村の祭祀も司った。明治12年沖縄県,同29年中頭郡に所属。北谷間切の村々には屋取が多く,野里村域にも国直・上原・千原・新間などがあった(沖縄の集落研究)。明治20年頃に久米村の人が入植したのが始まりという千原は瀬武原とも書かれ,方言ではシンバルという。明治6年,野里親雲上の地頭地作得は9石余(県史14)。同13年の野里ノロクモイは,作得表高米7升余・雑穀6石余,現収高雑穀2石余(県史12)。戸数・人口は,同年340・1,542(男780・女762),同36年370・1,850(男957・女893)うち士族52・382。明治36年の民有地総反別370町余うち畑312町余・宅地25町余・山林28町余・原野2町余(県史20)。同41年北谷村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464890
最終更新日:2009-03-01




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