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- 南風原村(近世)とは
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南風原村(近世) 王府時代~明治36年の村名島尻方,はじめ島添大里間切,のち大里間切のうち方言ではフェーバルという沖縄本島南部,饒波【のは】川の水源に位置する「高究帳」に島添大里間切南風原村と見え,高頭451石余うち田345石余・畑105石余で,田の石高は間切中で最も大きい「由来記」には大里間切南風原村と記すはじめ間切番所が集落の東南に続く坂道付近にあったが,不便なため,乾隆元年(1736)与那原【よなばる】村に移した(球陽尚敬王24年条)しかし,嘉慶16年(1811),南風原村東方にあった間切番所を,道が悪く毒蛇の害を避けるため,手田川原に移したとある(球陽尚灝王8年条)道光10年(1830)古川原に架かる橋が大雨ごとに損壊するため,村民が自力で石橋(長さ5間・幅2間)に改修し,褒賞された(球陽尚育王3年条)御嶽にゲノ森・松尾ノ嶽・大里ノ嶽・神山ノ嶽があり,南風原ノロの崇べ所(由来記)ゲノ森近くの洞穴は,鬼餅の由来にかかわる大里鬼のすみかであったという(同前)飯盛御嶽に石碑があり,「爰に骨あり,世遠くしてその人しるへからす,然れとも霊魂の祟ありて,嘉慶廿二年丁丑八月十日,其散骸を安置しけり,不思議や其次夜神翁来て,いひもりと唱よと告命あり,仍而由来を碑文に記之」と刻む御嶽形成を知る貴重な史料である(県文化財調査報告書69)明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属明治13年の戸数108・人口505うち男247・女258(県史20)同15年の報告では,廃藩置県以前のサトウキビ畑7,436坪・砂糖高7,430斤余(地方経済史料10)同36年大里村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」