ケータイ辞書JLogosロゴ 牧港村(近世)


沖縄県>浦添市

 王府時代〜明治41年の村名。中頭【なかがみ】方浦添【うらそえ】間切のうち。「喜安日記」に真比湊,「絵図郷村帳」に,まひみなと村,「由来記」などに牧湊村と見える。康煕27年(1688)以前に,牧港村ひやた原の竿はずれ地8反8畝20歩(高10石余)を,浦添按司が仕明した(琉球資料95/浦添市史2)。康煕年間(1662〜1722)宜野湾【ぎのわん】間切謝名村の帳当座主取の真志喜が当地内に数畝の田地を開いた(球陽尚貞王13年条)。雍正13年(1735)木橋であった牧港村港湾内の橋を改修して,石橋とした(球陽尚敬王23年条)。この時の改修を記した乾隆9年(1744)の「改修牧港橋碑記」に,牧港橋は沖縄本島の南北を結ぶ交通の要所であり,「無是橋則通路隔絶何以安民」とある(県文化財調査報告書69)。同42年八重山の与那国島に漂着した中国人17人が,同43年船で護送され,牧港村外れの小屋に収容,のち本国に送還されている(琉球藩在来往翰/浦添市史2)。嘉慶13年(1808)冊封使が来琉し,その滞在中,薩摩への仕上世米積出港を那覇【なは】から移すため,港湾の浚渫を行い,その費用を出した者が褒賞された(昂姓大宗家譜/那覇市史資料1‐8)。道光26年(1846)牧港橋が大雨で破損,同年から翌年にかけて改修された(改修牧港橋碑記)。「ペリー訪問記」によれば,咸豊3年(1853)ペリーの内陸探検隊が牧港村を通過,マチナトゥ(Machinatoo)と記され,2つの大きな橋が架かるとある(ペリー訪問記)。拝所に牧湊之殿があり,浦添ノロの祭祀(由来記)。明治12年沖縄県,同29年中頭郡に所属。明治6年の牧湊(親雲上か)の作得は14石余(県史14)。同13年の牧湊掟の役俸は米1石余・雑穀2石余(県史12)。同26年の「石高村別台帳」では百姓地252石余・請地22石余・仕明地4斗余で計275石余,惣頭は108人(浦添市史2)。同27〜29年に,村内法違反で男18人が罰金を科された(南島村内法)。戸数・人口は,明治13年136・728(男338・女390),同36年174・904(男461・女443)うち士族25・138。明治36年の民有地総反別150町余うち田3町余・畑105町余・宅地7町余・山林18町余・原野13町余(県史20)。同41年浦添村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7465084
最終更新日:2009-03-01




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