ケータイ辞書JLogosロゴ 屋嘉(近代)


沖縄県>金武町

 明治41年〜現在の字名。はじめ金武村,昭和55年からは金武町の字。昭和初期までは地内前の浜から,那覇【なは】方面へは砂糖を,与那原【よなばる】・泡瀬へは薪炭・茅などを移出した(金武町誌)。沖縄戦で住民は,昭和20年5月に石川収容所に収容され,同年12月に伊芸,翌21年12月地内嘉喜又原へ移動した。地内には久高島の住民が避難してきていて,戦没者も多いといわれる。昭和20年6月頃米軍による捕虜収容所が置かれ,沖縄全域から日本軍約8,000人が収容された。このうち,沖縄県出身者は同年10月から家族に引き渡され,他府県出身兵は翌21年5月頃までに日本本土へ送還された。捕虜収容所は,米軍保養所屋嘉ビーチとして接収され,復帰後の同55年解放された(同前)。地内の一部は米軍基地キャンプ・ハンセンとして接収され,復帰後も実弾演習による山火事などの被害を受けている(沖縄の米軍基地)。昭和50年から42億円をかけた県営農地開発事業が始まる。それ以前は農家の平均経営面積は0.41haと零細で,ほとんどが第2種兼業であったが,この事業で261haの農地開発が予定されており,経営規模の拡大が図られる。世帯・人口は,昭和45年245・1,099,同52年286・1,234。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7465178
最終更新日:2009-03-01




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