ケータイ辞書JLogosロゴ 与那覇村(近世)


沖縄県>下地町

 王府時代〜明治41年の村名。宮古島下地【しもじ】間切のうち。「両島絵図帳」では石高620石余。人頭税賦課の基準となる村位は,布・石とも上位(里積記/那覇市史資料1‐2)。順治15年(1658)与那覇与人が置かれた。康煕12年(1673)白川氏与那覇与人恵和ら45人は沖縄本島へ上国したが,帰途逆風にあって,中国に漂着,8年滞在して,同19年にようやく帰国したが,生存者は21人にすぎなかった。帰国時に上陸したのは赤崎御嶽下の浜であったと伝える。乾隆36年(1771)明和の大津波の際,隣接する宮国・新里・砂川・友利の城四箇村は被害が最も大きく,村人の死体が与那覇の浜に多数漂着した。与那覇村では集落南方の俗称前の山に合葬し,碑をたてた。碑の近くには現在も人骨がある(県文化財調査報告書69)。明治12年沖縄県,同29年宮古郡に所属。明治19年通称ンナトに下地小学校を設置,生徒数40人。同26年人頭税廃止運動が盛んな頃,与那覇村番所の穀倉役人が農民を先導して上納粟を盗み,換金して農民代表の上京資金にしたという。戸数・人口は,明治13年217・635うち男316・女319(県史20),同26年146・785うち男402・女383(宮古島取調書/平良市史4),同36年174・907(男442・女465)うち士族93・469。明治36年の民有地総反別472町余うち田4反余・畑341町余・宅地11町余・塩田1町余・山林1町余・原野115町(県史20)。同41年下地村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7465254
最終更新日:2009-03-01




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