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- 堀口郷(中世)とは
「堀口郷(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 堀口郷(中世) 南北朝期から見える郷名北寒河江【きたさがえ】荘のうち円覚寺領建武4年7月10日の足利直義御判御教書(円覚寺文書/県史15上)に「出羽国北寒河江庄五ケ郷吉田・堀口・三曹司・両所・窪目地頭職」が円覚寺に安堵されたとあるのが初見なお貞治2年4月の円覚寺文書目録には「堀口村」と見えるただし,永仁3年後2月25日の北条貞時執事奉書(円覚寺文書/県史15上)によれば「出羽国寒河江荘内工藤刑部左衛門知行分五箇郷」が円覚寺に寄付されており,この時初めて堀口郷が円覚寺領になったと思われる観応2年4月21日の足利直義御判御教書(円覚寺文書/県史15上)および観応3年9月3日の足利尊氏御判御教書(瑞泉寺文書/県史15上)によれば,この五ケ郷が少輔掃部助なるものによって押領されたなお少輔掃部助とは大江少輔元政と思われる(山形市史上)永和3年12月11日の官宣旨(円覚寺文書/県史15上)によれば,五ケ郷の伊勢神宮造営のための役夫工米・段米・棟別銭などが免除され,永和3年12月24日付の室町幕府管領奉書(円覚寺文書/県史15上)によれば五ケ郷の諸役が免除されている応永26年12月17日の関東公方御判御教書(円覚寺文書/県史15上)でも堀口郷などの五ケ郷が鎌倉公方足利持氏によって重ねて円覚寺領として認められている村山地方,現在の河北【かほく】町大字谷地字道海【どうかい】の東方から東根【ひがしね】市大字藤助新田の北方にかけてのあたりに比定される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 堀口郷(中世) 戦国期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」