ケータイ辞書JLogosロゴ 山寺村(近世)


山形県>山形市

 江戸期〜明治22年の村名。村山郡のうち。はじめ最上氏領,元和8年山形藩領,寛文8年幕府領(漆山代官所支配),天保13年山形藩領,弘化2年からは上野館林藩領。村高は,寛永13年の領地目録(家世実紀)では996石余,「天保郷帳」では1,311石余,天保13年の村山石高帳では988石余,「旧高旧領」でも変わらず。ほかに立石寺領として493石余がある。なお「元禄郷帳」には「山寺村」と見え,「山寺の内 上山寺村 馬形村」の朱筆がある。慶長9年12月10日の栄蔵坊・宮丸畠地売券(立石寺文書/県史15上)には「ところぶ(所部)東海林つくり之内,畠壱貫弐百(文脱カ)地之所を,永代未来壱貫九百文ニ売渡申し候,年貢之事ハ,山寺之なミにて候」と見え,地内の字所部の畠地を売買しており,その際「年貢」は当地に定められた率に従う旨が記されている。元文元年の村明細帳(県史13)によれば検地は寛文12年で,その反別は7町8反余(うち田は4反余),雑穀・粟・稗・蕎麦をつくり,農間余業は田畑野山稼ぎで,市は立たず入用の品は山形・天童へ出てそろえたという。その後寛政2年の村明細帳(山形市史資料8)には「当村往還ニ無御座候得共,仙台江之道筋ニ而廻国之行人又者参宮之類,稀ニ商人荷物少々之物,山形・天童江相通し候」と見え,明治3年の村明細帳には「当村之儀者,奥州越之峠御座候故,諸商人駄送之荷物継立候問屋弐軒御座候得共,先年より駅場と申儀ニ者無之……往古より助郷箸者,一切無御座候」とある。江戸後期頃から荷物の継立てが行われたものと思われる。地内の天台宗立石寺は朱印高1,420石で当村のほか高擶村・上荻野戸村などに寺領を有し,寺領代官遠藤家がこれを管理した。元禄2年松尾芭蕉は当地に立ち寄り「山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師の開基にして,殊に清閑の地なり。一見すべきよし,人々の勧むるによりて,尾花沢よりとつて返し,その間七里ばかりなり」と記し,「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の句を得ている(おくのほそ道/角川文庫)。旧山形県を経て明治9年山形県に所属。同11年の一覧全図では,反別261町9反余,戸数390・人口2,100,山寺学校がある。明治11年東村山郡に属し,同22年山寺村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7615187
最終更新日:2009-03-01




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