ケータイ辞書JLogosロゴ 千倉荘(中世)


福島県>原町市

鎌倉期から見える荘園名行方【なめかた】郡のうち嘉禄3年12月の相馬能胤譲状案(正木文書/県史7)に「ゆつりたてまつるとよこせんのそちの事,行方郡内千倉庄加北草野定……,右ところハ,とよこせんのりやうとして,ねうはうのさたうへきことしちなり」とあるのを初見とする貞永元年11月13日の将軍家政所下文(同前)にも「将軍家政所下,平氏子字土用,可令早領知陸奥国行方郡内千倉庄」と見え,千倉荘は下総【しもうさ】の相馬能胤の所領であったが,新田岩松時兼に嫁した女に譲られ,岩松氏の所領となっている建武元年3月28日の沙弥某遵行状案(会津合考所収文書/県史7)に「新田兵部太輔経家代寂心中,行方郡千倉荘事」とあり,荘内に逃れた北条氏余党を捕えさせている観応2年11月26日の吉良貞家施行状(相馬文書/県史7)に「陸奥国行方郡千倉庄内闕所分〈新田左馬助当知行分除之〉事,為勲功之賞所宛行也」と見え,千倉荘の闕所分を相馬親胤に与えたことがわかる延文3年11月20日の相馬親胤譲状(同前)で千倉荘の仁木田・安倉・太倉・北草野の4か村を子息胤頼に譲り,貞治6年8月23日の相馬胤頼譲状(同前)では4か村は子息千代生に譲られている応永2年10月21日の相馬憲胤譲状(同前)で「千倉庄内仁義田村,横手村,駒泉村,安倉村,北草野,太倉」などを子息胤弘に譲っている文正2年2月25日の目々沢道弘文書目録預状(同前)に「一,千蔵庄,是又依御忠賞,無異議御拝領候也」と見え,千倉荘が目々沢道弘の所領となっていることがわかるまた享禄2年の年紀を有する阿弥陀寺鐘銘(鹿島町南屋敷)に千倉荘と見えるなお「奥相志」によれば,応永年間に岩松蔵人頭源義政は,千倉荘に1,000町を領有して横手村に住したが,義政の死後の正長元年,四臣の謀逆によりその幼主が殺され,以後その所領は相馬氏の手中に帰したという浜通り北部,現在の鹿島町南部から原町市北部にかけての地域に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7615214
最終更新日:2009-03-01




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