ケータイ辞書JLogosロゴ 筑波山


茨城県>真壁町

「古事記」巻中景行天皇条および「日本書紀」景行天皇40年是歳条に,倭建命(日本武尊)が蝦夷平定の帰途,甲斐国酒折宮(現山梨県甲府市)で侍者たちに「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」と尋ねたところ,御火焼之老人(秉燭者)が「日日並べて 夜には九夜 日には十日を」と答えたので,東国造を賜わったという説話が見える。のち,この倭建命と御火焼之老人の片歌問答が連歌の起源とされ,連歌の道は筑波の道とも称され,筑波山は連歌の岳ともよばれるようになる。「風土記」総記に「筑波岳に黒雲挂り,衣袖漬【ころもでひたち】の国」と見え,筑波郡条に「それ筑波岳は,高く雲に秀で,最頂は西の峯崢しく嶸く,雄の神と謂ひて登臨らしめず。唯,東の峯は四方磐石にして,昇り降りは嶮しく屹てるも,其の側に泉流れて冬も夏も絶えず」と見える。また同郡条には,次の説話も記されている。巡幸の途中福慈の岳(富士山)の福慈神に新嘗祭の物忌みを理由に宿泊を断わられた神祖の尊が,おまえの山は冬も夏も雪や霜が降り,寒さが何度も襲い,だれも登らず,酒や食べ物を供える者もないだろうと呪詛したという。その後,筑波の岳に宿を求めたところ,筑波の神は,新嘗祭の夜だが親神を泊めないわけにはいかないと飲食物を用意して,うやうやしく拝し,奉仕したので,神祖の尊は,いとしい我が子よ,その宮は立派で高く大きく,永久に変わることなく,人々は集まりことほぎ,神への供物も豊かに,絶えることなく,日増しに栄え,千年も万年も楽しみは尽きないであろうと歌い,たいへん喜んだとある。また,坂東諸国の男女が春・秋に連れだち,食物や飲物を持ってこの山に登り,「筑波嶺に 逢はむと いひし子は 誰が言聞けば 神嶺 あすばけむ」「筑波嶺に 廬りて 妻なしに 我が寝む夜ろは 早やも 明けぬかも」などと歌って一日中楽しみ遊んだが,この地方では筑波峯の会で男から求婚の贈り物をもらえない女は娘の数にも入らないといわれているという記述も見える。これが有名な筑波山の歌垣【かがい】(嬥歌)で,「万葉集」巻9にも「筑波嶺に登りて嬥歌会をする日に作る歌一首」として「鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて 未通女壮士の 行き集ひ かがふ嬥歌に 人妻に 吾も交はらむ あが妻に 他も言問へ この山を 領く神の 昔より 禁めぬ行事ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 言も咎むな」と見える。筑波山の歌垣の場「裳羽服津」については,夫女ケ原(妹背ケ原)に比定する説が多い(筑波誌など)。また真壁町羽鳥も嬥歌の「嬥」の字の旁が「羽・鳥」となったとも考えられ,嬥歌会の場所の可能性もあることから,筑波山における歌垣は,山上・山麓周辺各地で行われ,のち筑波山神社の祭事として六所神社周辺(夫女ケ原)で行われたと考えるべきであろう(古風土記研究)。筑波山の姿はやさしく美しいため,古代の人々にとっては妻や恋人との愛情を連想させた。東歌に「筑波嶺に雪かも降らる否をかもかなしき児ろが布乾さるかも」(万葉集巻14)とあり,常陸国那賀郡の防人大舎人部千文は「筑波嶺のさ百合の花の夜床にも愛【かな】しけ妹そ昼も愛しけ」(万葉集巻20)と歌っている。ほかに「万葉集」には「検税使大伴卿の筑波山に登りし時の歌一首」「筑波山に登る歌一首」「筑波岳に登りて,丹比真人国人の作る歌一首」など筑波山を題材にした歌が数多くみられる。「古今和歌集」「興風集」「忠岑集」「忠見集」「元輔集」「源順集」「好忠集」「宇津保物語」「源氏物語」などにも取り上げられている。南麓の新治【にいはり】村小野には小野小町の墓と称するものがあり,小野小町が同地で没したとの伝説が残る。筑波山は,東国の山岳信仰の聖地の1つでもあった。女体山頂付近の通称「天狗の巣落とし」とよばれる巨石の間で,奈良期の花卉双蝶八花鏡と7世紀末から12世紀にかけての土師器・須恵器・陶器類が数多く発見され古代の山岳信仰を裏付けるものとして注目されている。また,「元亨釈書」「本朝高僧伝」には,徳一が当山に筑波山寺を開いて法相宗を広めたことが見え,その没後寺は真言宗にかわり,従来からの山岳信仰とあわせて山全体が即身成仏の修行道場とされた。「延喜式」神名帳に「筑波郡二座(大一座小一座)筑波山神社二座(一名神大一小)」と見えるが,筑波山神社は筑波山寺の開山に伴い,観音を本地仏とする筑波山両部権現となる。平将門の乱の際には,将門と平良兼軍との戦いが当山周辺で行われ,「将門記」によれば,承平7年9月19日に良兼の営所服織の宿を焼き払った将門が「一両日の間に件の敵を追ひ尋ぬるに,皆高き山に隠れて,ありながら相はず。逗留の程に,筑波山にあり」と聞き,弓袋の山(湯袋峠)で良兼軍と対陣したという。古代から中世にかけての筑波登山道は,国府から恋瀬川を舟で上って八郷町片野のあたりから同町十三塚のあたりへ出て風返峠を通って登る道と,恋瀬川を横断して筑波の山裾を千代田町佐谷から新治村小野を経てつくば市の東端山口・平沢あたりへ出て登る道の2つのルートがあった(常陸万葉風土記)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7615333
最終更新日:2009-03-01




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