ケータイ辞書JLogosロゴ 筑波山


茨城県>真壁町

治承3年5月の常陸国総社造営注文案に「忌殿一宇五間〈萱葺〉筑波社」,文保2年5月4日の小田貞宗請文に「筑波社三村郷分,全無造営之例候」と見え(常陸国総社宮文書/県史料中世),総社造営料が小田氏が地頭である筑波社領に課せられているが,これは翌3年の常陸国総社造営役所地頭等請文目録に「一通 筑波社三村郷地頭小田常陸前司□□(請文カ)」とあるのに対応し,鎌倉期の筑波社領地頭が小田貞宗で,当山は小田氏の支配下におかれている。弘安田文に「筑波社五十六丁六十歩」と見え(税所文書/県史料中世),嘉元田文にも同様に見え(所三男氏所蔵文書),鎌倉期には56町60歩の筑波社領が確立していたと思われる。享徳4年2月の筑波潤朝軍忠状写に,筑波氏族の筑波山衆徒を引率しての軍功が語られ(武家雲箋/栃木県史),小田氏流といわれる筑波山別当筑波氏の独自の行動が判明する。筑波氏は,常陸守護八田知家が子の八郎為氏(明玄)に筑波国造の名跡を継がせ,筑波山別当としたことに始まり(筑波氏系図),以後筑波神の奉斎者・中褝寺の別当として山内の神人・衆徒を支配した。その他,応永31年10月10日の足利持氏御教書案(鹿島神宮文書/県史料中世),文明3年5月30日の足利義教御内書写(御内書符案/栃木県史),永禄4年頃の関東幕注文(上杉家文書/栃木県史),天正18年頃の関東八州諸城覚書などに筑波氏が見え(毛利家文書/栃木県史),筑波氏の系統は戦国末期まで続いたらしい。中褝寺は筑波山寺が改称したもので,筑波山知足院と号し,中世には関東有数の修験道場として栄えた。当山中には筑波山褝定と総称される全66か所の修行場が設けられていたという。文明18年9月24日には京都聖護院門跡道興が当山に登っており(廻国雑記/群書18),当山の修験霊場としての伝統を想起させる。天正18年5月には豊臣秀吉が筑波山知足院充に禁制を出している(護持院古記録写)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7615334
最終更新日:2009-03-01




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