ケータイ辞書JLogosロゴ 筑波山


茨城県>真壁町

江戸期に入ると,当山が江戸城の鬼門にあたることから,知足院が幕府の祈願所となり,幕府の外護を得て隆盛をきわめた。徳川家康は慶長5年にそれまでの筑波山別当筑波氏を追放し,大和国長谷寺の別当梅心院宥俊を代わりとして知足院中褝寺を再興,同7年には筑波郡筑波郷500石を知足院に寄進している(筑波山神社文書)。寛永10年には知足院の堂塔が修築され,大御堂・三重塔・神橋・随神門や多くの僧房がたち並び,以後堂塔を中心として門前町が形成され,山頂には五亭とよばれる5軒の茶屋があった。5代将軍綱吉の時には,知足院の隆光が幕政に重用され,元禄8年に1,000石が加増されたので,寺領は筑波村のほか南麓の沼田村・臼井村など1,500石を数えることとなった。江戸期の筑波登山道は,つくば市北条から同町神郡・臼井を経て,大石段を登って大御堂へ出,神社に詣でるというルートであったという。安政2年・慶応2年には大きな山津波があり,嘉永4年の大火では門前町が全焼。元治元年3月に,水戸藩尊攘派の藤田小四郎・竹内百太郎・岩谷敬一郎ら百数十名が町奉行田丸稲之衛門を首領に,当山に拠って挙兵し,いわゆる天狗党の乱が始まった。彼らは大御堂や宿屋を占拠し,近村の富豪に差紙をつけ,金穀を徴発した。片野村の穀屋某は,外国商人と貿易して巨利を占めたという理由で金品を強奪され,斬殺されたという(八郷町誌)。天狗党は,日光参拝ののち下野【しもつけ】国太平山(栃木県栃木市)に移ったが,5月末に再び当山に戻り,この頃には総勢1,000名余にふくれあがっていた。7月はじめには下妻で幕兵・諸藩兵からなる追討軍を破ったが,水戸で諸生派による天狗派の粛正が始まると,筑波天狗勢も山を降り,各地に転戦。10月末に那珂湊で敗れると,800余人が西上の途につき,朝廷に挙兵の心情を嘆訴することにしたが,12月16日越前敦賀近くの新保の宿で加賀藩に降伏,翌慶応元年に350余人が斬罪,他はすべて遠島・追放の刑に処せられた。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7615335
最終更新日:2009-03-01




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