ケータイ辞書JLogosロゴ 谷田部城下(近世)


茨城県>つくば市

 江戸期の城下名。常陸国筑波郡のうち。谷田部藩の城下町。下野【しもつけ】国茂木【もてぎ】藩主細川興元(細川忠興の弟)が元和元年の大坂夏の陣の戦功により谷田部6,200石余を加増されて合わせて1万2,000石余を領して元和2年当地へ移封となり谷田部藩が成立。その子興昌が本陣を茂木から当地の内町村に移し,内町村・新町村に城下町を形成して,陣屋の鬼門にあたる台町村に天台宗医王寺を付設した。谷田部藩は代々細川氏を藩主とし,陣屋は中世の砦跡の台地ではなく,東に谷田川(東谷田川),西に西谷田川,北に水田,南に集落の続く低地に設置された(谷田部の歴史)。寛文11年陣屋の側にあった浄土真宗明超寺を陣屋口前の現在地(新町)に移して陣屋を整備拡張したといい,幕末には陣屋の敷地は6,800坪で北・東に堀があって門の正面に約120坪の陣屋を構えていた(谷田部の歴史)。天明8年「分間谷田部絵図」によると(同前),陣屋口の前方(南)右側に鉄砲場があり,陣屋口前の左に内町,前方に新町・ふどう町が続き,鉄砲場のさらに西に西町の名が見え,西町の北側に細川家の菩提寺浄土宗道林寺がある。寛政6年陣屋敷地内に藩校弘道館が設置された。弘道館は文館・武館の2棟を総称したものと思われる(谷田部の歴史)。なお,当城下の規模は小さく,「谷田部も城下か,たにしもさかなか」とか「真瀬のようなる在所もあるに,谷田部城下とは気が強い」などといわれたという(同前)。明治2年陣屋は再び茂木に移されて同4年茂木藩となり谷田部藩は廃藩となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7615381
最終更新日:2009-03-01




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