ケータイ辞書JLogosロゴ 上代郷(中世)


千葉県>干潟町

 鎌倉期から見える郷名。下総国東荘のうち。嘉元3年12月の某証文に「□□(下総)国東庄上代」と見える(金沢文庫文書/県史料県外)。鎌倉後期には千葉一族東氏の庶流東盛義が当郷の地頭領主であったが,罪科によって幕府に所領を没官され,元亨元年6月,常陸国北郡内寄進地の替地として当郷内盛義知行地の3分の1が金沢称名寺に充行われた(金沢文庫文書元亨元年6月22日付鎌倉将軍家寄進状・年未詳塩飽新右近入道注文・賜蘆文庫文書建武2年4月10日付蓮一書状/県史料県外)。翌元亨2年2〜3月に,盛義代官盛信・称名寺雑掌・幕府使者平定胤の立合いで所領の打渡しが行われ,郷内総田数89町1反180歩のうち,別田16町240歩を除き,盛義知行分39町60歩(沽却分22町8反60歩,実質的知行分16町2反),称名寺知行分34町120歩(別相伝・沽却分24町7反120歩,実質的知行分9町3反)に分割され,これによって,称名寺は13石1升1合7才・准布代銭2貫553文を収納することとなった(金沢文庫文書元亨2年2月29日付知行配分注進状・同日付所領配分渡状・元亨2年3月10日付所領注文/県史料県外)。このほかに,在家9宇・「江崎野原」を称名寺に付し,在家19宇・小田40筆・「入海浦(椿海)」・山の3分の2は盛義が保持している(同前)。また,当郷内黒部村10町4反180歩が称名寺領であり,黒部村内の「くろへ」と「はたかや」に寺領の在家が6宇ずつ存在した(金沢文庫文書元亨3年11月26日付黒部村検見帳・正中2年2月付黒部村年貢結解状・年欠黒部村在家注文/県史料県外)。元亨2年以降も称名寺は「別相伝・沽却分」や「隠田・増田」をめぐって東氏と相論を継続し,元徳2年,鎌倉幕府の裁許をうけたほか(金沢文庫文書元徳2年閏6月24日付関東御教書/県史料県外),盛義が売却・譲与した所領についても買得するなどして確保に努めている(金沢文庫文書嘉暦4年4月15日付東重義用途請取状/県史料県外)。南北朝期には,東氏が内乱に乗じて,所領侵略を繰り返し,康永2年8月4日付室町幕府引付頭人奉書によれば,称名寺領の「東庄内上代郷并大窪寺田畠参分一地頭職」に対する東弥六(胤義・盛義子息)・東七郎(重義)らの濫妨が停止せしめられ(金沢文庫文書/県史料県外),貞治4年12月26日には,東弥六・海上八郎入道の押領した同寺領「東庄上代郷内土持・河島・原井并渡野辺源内兵衛入道等跡」の回復が,鎌倉府から引付の奉書をもって,国分・大須賀両氏に命じられている(同前)。室町期には,称名寺は「東庄上代郷内金沢領之領家御年貢」として6貫文を収納した(金沢文庫文書明徳4年12年7日付通泉押書/県史料県外)。戦国末期には,千葉胤富が天正5年の常陸攻めの際,「かしろの弓衆」に舟をひかせている(原文書9月23日付千葉胤富判物/神奈川県史資料編3)。元亨2年の所領配分状などには,当郷内の地名として「クツナヘ」「熊野」「フナヘ」(現東庄町舟戸か)「ヲろやツ」「江崎」(現干潟町桜井字江崎),元徳2年2月の屋敷注文には「さくら井」(現干潟町桜井)「アハチ」(現干潟町溝原字粟路)「ウツほ」などが見え,また,神田を有する寺社として「左右大明神・雷・大宮・天宮・妙見・法王・十二天・諏訪大明神・泉新権現・溝原寺」などがあった(金沢文庫文書/県史料県外)。黒部村は現干潟町溝原字黒部付近,大窪寺は東庄【とうのしよう】町大久保に比定されよう。当郷域は,近世の上代村よりも広く,現在の東庄町大久保・舟戸,干潟町桜井・溝原を含む地域にあったと推定される。なお,「千葉大系図」によれば,東氏の祖胤頼は,当初「上代村前野城」(干潟町桜井)に居住したと伝える(房総叢書)。徳川家康の関東入国後には,家康家臣の松平主殿助家忠が,天正元年〜文禄3年にわたって,当地の領主に封ぜられた(家忠日記)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7615590
最終更新日:2009-03-01




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