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![]() | 若宮村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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![]() | 若宮村(近世) 江戸期~明治6年の村名日向国臼杵【うすき】郡のうち椎葉山【しいばさん】84か村の1つ九州山地中央部,耳川上流,同川支流小崎川が合流する地点に位置する現在は日向椎葉湖の湖岸に立地元和5年から幕府領(はじめ肥後国阿蘇神社の監督下に預けられたが,明暦2年からは肥後国人吉藩の預り支配地となる)人吉藩の椎葉山支配組織四組のうち下福良【しもふくら】組に属した元禄11年「日向国覚書」には,村名は見えるが村高の記載はない村高は,寛延元年には1斗余(日向国臼杵郡椎葉山村々様子大概書/明治大学蔵内藤家文書),「天保郷帳」では3石余,慶応3年にも3石余(同前)「日向国臼杵郡椎葉山村々様子大概書」(明治大学蔵内藤家文書)によれば,寛延元年の村況は,反別は畑1反余,家数7,人数は男18・女15同じく慶応3年の村況は,村高3石余のうち2石9斗余が文政11年焼畑高入分と見え,反別は畑3反余・焼畑2町6反余,家数8,人数は男30・女29明治元年日田県に属し,同4年人吉藩,人吉県,美々津県を経て,同6年宮崎県に所属明治6年下福良村の一部となる... |
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![]() | 若宮村(近世) 江戸期の村名肥前国松浦郡のうち平戸島中央部から南部に位置し,中津良川と敷佐川の合流地周辺の河口・海岸に形成された集落地名は神功皇后の義弟十城別命が上陸したとの伝説に由来するといわれ,堤防上に王を祀る石祠が残る平戸藩領「慶長9年惣目録」には当村名が見えず,江戸初期には津吉村の一部であったが,「元禄12年郷村帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」では津吉村とは別に当村名が見え,江戸前期に津吉村から分村して成立したと考えられる「元禄12年郷村帳」では「津吉村枝村」と注記されている村高は,「元禄12年郷村帳」54石余,「天保郷帳」119石余「旧高旧領」には当村名が見えず,中津良村1,532石余のうちに含まれているとみられ,幕末・維新期までに中津良村のうちに含まれることになった明治期には中津良村下中津良免の一部となり,現在の平戸市下中津良町の一部にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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