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- 松山保(中世)とは
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松山保(中世) 戦国期に見える保名駿河【するが】国志太【しだ】郡のうち岡部川流域に位置する天文18年8月11日の今川義元朱印状に「壱貫文 松山保〈五年廻,本ハ壱貫六百文問答ニて如此〉」とあるのが初見で,浅間神社の流鏑馬郷役が当保に賦課されている(旧村岡大夫文書/県史料3)永禄元年8月13日の今川氏真朱印状にも同様の記載がある(静岡浅間神社文書/県史料3)なお,天文16年の寿桂尼朱印状で内谷【うつたり】に隣接して「まつ山」が見え(徳願寺文書/県史料3),また,元亀3年12月19日に武田信玄によって小浜民部左衛門尉に充行われた所領のうちに「岡郡(部の誤記)之内松山方 百貫」とある(小浜文書/大日料10-9)岡部の八幡宮を松山八幡と呼びならわしていることなどからも現在の岡部町内と考えられ(荘園志料),大字岡部・内谷の付近に比定される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」