ケータイ辞書JLogosロゴ 苅安賀村(中世)


愛知県>稲沢市

 戦国期に見える村名。尾張国中島郡のうち。「借屋須賀」「仮屋須賀」「苅安須賀」などとも見える。地名としては南北朝期から見え,嘉慶2年8月13日の妙興寺領坪付注文に,中島正介寄進分のうちの1つとして「一所玖段 拝師郷内〈穴田借屋須賀〉」と記されており,以後長享元年頃までに至る同寺領坪付注文に当地の地名が見られる(妙興寺文書/一宮市史資料編5)。天正2年3月6日の年記をもつ阿弥陀如来絵像裏書には「尾州中島郡苅安賀村 願主釈了性」と記されている(盛泉寺史料/同前資料編6)。なお,明応6年6月16日の年記をもつ阿弥陀如来絵像裏書に「苅安賀聖徳寺門徒」と見える(正瑞寺文書/同前)。「証如上人日記」天文9年5月7日条に「苅安賀,福勝寺,番衆,在所衆六人来」とあり,同年11月3日条には「苅安賀正覚寺,如毎月以小豆之餅,樽出之」と見え,天文12年3月5日条に「為斉於苅安賀了顕死去之志」とある(一宮市史資料編補遺2)。また正福寺門徒本尊控帳に,証如画像裏書写があり天正10年9月24日の年記とともに「佐々木上宮寺門徒尾州中島郡苅安賀専称坊」と記されている(正福寺史料/同前資料編6)。天正18年と思われる9月28日の田中吉政書状は,「かりやすかノ内仏正坊同宿中」に宛てたもので,年未詳7月28日の粟津勝兵衛奉本願寺御印書は「尾州中島郡かりやすか村十日講中」に宛てられている(正福寺史料補遺/同前資料編補遺2)。天正19年の上宮寺末寺帳には「〈かりやすか〉正福寺」と見える(上宮寺文書/同前資料編6)。このように当地には聖徳寺・正覚寺・正福寺専称坊などの真宗寺院があり,多くの一向宗門徒がいた。年未詳6月6日の戸□長利書状には,「苅安須賀御普請之儀ニ付而……家康様より御奉行衆被越候て」と見え,これは天正12年の小牧・長久手の戦の頃に徳川家康・織田信雄側が当地の城普請を行った時のものと思われる(氷室和子氏所蔵文書/同前)。天正17年と考えられる12月4日の豊臣秀吉朱印状に「仮屋須賀城へ人数五百可被入置候」と記され,秀吉は小田原攻めに際し,小早川隆景に清須城在番を命じ当地の城へ手兵500人を入れて守るよう命じている(小早川家文書/大日古)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7616637
最終更新日:2009-03-01




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