ケータイ辞書JLogosロゴ 長瀬郷(中世)


愛知県>岡崎市

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。三河国碧海郡碧海荘のうち。永仁3年8月日の碧海荘米配分状案に碧海荘18か所の1つとして「長瀬郷」と見え,熊野山日供米70石5斗が賦課されている(紀伊続風土記附録十四本宮社家二階堂蔵/鎌遺18898)。これより先,建暦2年8月12日の近衛基通家政所下文案に尾張長岡荘地頭に補任された「参川国住人字長瀬次郎」の名が見えており(書陵部所蔵参軍要略抄裏文書/同前2019),この人物の名字の地の可能性がある。また鎌倉末期成立の瀧山寺縁起に尊観御坊の俗名は左馬四郎源義継で「長瀬四郎殿」と号したとあり(瀧山寺文書/岡崎市史6),これは足利義氏の子義継のことであるから,東条吉良氏の祖とされる義継は一時期この長瀬に住したのであろう。応永16年正月11日の権大僧都良尊譲状写に熊野参詣の檀那場の1つとして「長瀬郷」がある(米良文書/熊野那智大江文書1)。文明16年11月1日の如光弟子帳に「長瀬 一箇所 三郎五郎」と見え(上宮寺文書/岡崎市史6),上宮寺末の真宗道場があり,三河真宗七か寺の1つ願照寺も長瀬にある(願照寺文書永正15年5月28日親鸞絵像裏書/同前)。永禄11年12月13日の内蔵利長下地寄進状に「長瀬石米舛」が見え(大樹寺文書/同前),長瀬郷辺りで用いられる桝の存在が知られる。天正16年3月石川家成は「長瀬郷」など五か郷に京上の材木を調進するよう命じており(上宮寺文書/同前),家成の知行地か。「家忠日記」天正15年8月14日条に「長瀬知行分」,年未詳9月14日の大久保忠成・本多正信連署書状に「長瀬之八幡領之内ニ,松又八(松平家忠)御知行分在之由被仰越候」とあり(本光寺文書/同前),長瀬八幡宮領に混って深溝【ふこうず】松平氏の知行地があった。江戸期の北野村・橋目村・森越村・舳越【へごし】村などにあたる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7616738
最終更新日:2009-03-01




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