ケータイ辞書JLogosロゴ 矢作(中世)


愛知県>岡崎市

 鎌倉期から見える地名。碧海郡・額田郡のうち。矢作川西岸は碧海荘に属した。鎌倉初期の「明日香井和歌集」に矢作宿が見える。治承5年3月に源行家軍と平家軍が矢作川を挟んで対陣した(平家物語・源平盛衰記)。貞応2年「海道記」の作者は「矢矯宿」に泊まっている(群書18)。承久の乱後三河国守護となり,額田郡・碧海荘の地頭職も獲得した足利義氏は,矢作宿に守護所や公文所を置き,往還する顕貴の宿泊施設を兼ねた邸宅を構えた。暦仁元年,将軍頼経は上洛時に「矢作宿」,下向時に「矢作宿辺」の義氏亭に泊まっている(吾妻鏡)。矢作宿はこうして足利氏の三河支配の拠点となって政治的に重要な場所となり,都市化も進んで東西交通・周辺経済の中継地として大いに繁栄した。顕密・新仏教の諸寺院も多く建てられた。親鸞の矢作柳堂における布教を伝え,建長8年の真仏・顕智による「ヤハキ薬師寺」での念仏創始は後世三河で真宗が隆盛する端緒となった(上宮寺文書三河念仏相承日記/岡崎市史6)。「沙石集」に身を売って母を養おうとした男が矢作宿で身の上話をした説話がある。室町期には既にあった源義経と宿の長者兼高の娘浄瑠璃御前の悲恋物語は,矢作宿の繁栄を背景にして生まれたのであろう。建武2年11月25日新政に反旗をかかげた足利氏の大軍が新田義貞らの軍を矢作川で待ちうけて激戦を展開した(太平記・梅松論)。この時矢作宿は戦場と化し,町場は相当の被害にあったと思われる。この合戦を描写した「太平記」に東宿・西宿が初めて見えるが,前代にそういう区分は既にできていたのであろう。単に矢作(宿)とあるのは,両者の総称であった。矢作川の洪水や支流乙川の流路変化もあって東宿は衰微し,その中心地は乙川をややさかのぼった地点の南岸に移り,室町期には東矢作と呼ばれることもあった。西宿はこれに対して「西矢作」と呼称されることもあったが(長享2年5月長興寺雲版銘/豊田市史6),次第に西宿側に専ら矢作の名称が定着するようになる。しかし矢作川西岸だけを矢作と呼ぶようになるのは江戸期になってからで,たとえば天文2年の尊海僧正の「あづまの道の記」に「矢作の里岡崎」とあるように,東岸を矢作の総称で呼ぶ慣行は戦国期まで生きていた。「経覚私要鈔」応仁2年条に宿駅「矢波木」が見える(纂集)。文明16年11月1日の如光弟子帳に新兵衛尉の上宮寺末道場が見え(上宮寺文書/岡崎市史6),ほかに勝蓮寺(勝蓮寺文書文明16年6月25日付蓮如絵像裏書/同前),浄覚道場(柳堂寺文書文明18年3月18日付蓮如絵像裏書)がある。岡崎城下町場の発達とともに,西岸矢作の宿駅機能は衰退していった。家康の五か国検地の結果を示す天正18年と思われる矢作郷年貢割付状によると,矢作郷高辻は田畑27万2,305歩,屋敷1万2,933坪で,島田平三・光明寺・普門庵・誓願寺・鍛冶2人の屋敷地や光明寺・普門庵・天王の寺社領除地があった(山本肇氏所蔵文書)。東岸東宿は江戸期の八丁村辺り,西岸西宿は矢作村に相当する。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7616845
最終更新日:2009-03-01




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