ケータイ辞書JLogosロゴ 志知(中世)


兵庫県>三原町

 鎌倉期から見える地名。淡路国三原郡西神代郷のうち。近世の中島・難波・佐礼尾・松本・志知北・鑪【たたら】村一帯に当たる。貞応2年の淡路国大田文に「西神代郷田四十八町三百卅歩〈志知此内也,但右馬允一在庁屋敷也,此外国中無志知庄也〉」とあり,西神代郷の内にある地域で,同大田文末尾にも署名の見える淡路国衙の在庁官人右馬允藤原朝臣の屋敷の所在地という。南北朝期には「太平記」巻17山門牒送南都事に「阿波・淡路ヨリ阿間・志知・小笠原ノ人々,三千余騎ニテ参リケレバ」,巻21先帝崩御事に「世ノ危ヲ見テ弥命ヲ軽ゼン官軍ヲ数ルニ……淡路ニ阿間・志知……皆義心金石ノ如クニシテ,一度モ変ゼヌ者共ナリ」と見え,阿万の武士とともに当地の武士団が当初から南朝方について活躍した。また「太平記」巻22義助下向事では暦応3年沼島に来た南朝の将脇屋義助を「阿間・志知・小笠原ノ一族共」が備前の児島まで送ったという。この武士集団の拠点が志知城である。城跡は現在の三原町志知松本の字城・裏門に所在。東側に大日川が流れる。曲輪の縄張り構成は不明。本丸台の北隅が天守台とも櫓台跡ともいわれている。堀は南北の長さ約130m,幅15m。本丸を広く取り囲むように外堀跡が残っていたが,現在は旧態は見られない。河川が堀と水運の両面の役割を果していて,水城的な性格を持つ(城館荘園遺跡)。鎌倉期に菅道忠によって築城されたという。戦国期には永禄9年6月阿波公方足利義栄が三好氏家臣篠原長房らに擁せられて上洛を企図,一時「淡路しちと云処」に滞在した(細川両家記/群書20)。当時,淡路国人菅氏の子孫と称する野口長宗が在城したことは,同城に隣接する伊勢神社の天正4年棟札で知られる(味地草)。野口氏は阿波三好氏の勢力下にあったが,天正9年7月,土佐の長宗我部氏が阿波に侵攻すると三好氏と野口氏らは織田氏に服従するため羽柴秀吉に和親を求めた。同年9月には秀吉が派遣した黒田孝高が「志ちの城」に入って戦略をめぐらしている(黒田家文書/姫路市史史料編1)。同年11月秀吉の淡路侵攻により野口氏は滅亡。天正13年11月秀吉は志知城を加藤嘉明に与えた。加藤氏は水軍を編成し,天正18年の北条氏討伐,文禄の役で出兵した。文禄4年7月嘉明は伊予松前城に転封。その後,豊臣家代官石川紀伊守が入ったが,慶長5年石川氏は三原川河口に叶堂城を築き志知城を廃した。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7617158
最終更新日:2009-03-01




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