ケータイ辞書JLogosロゴ 吉茂荘(中世)


広島県>美土里町

鎌倉期〜戦国期に見える荘園名安芸国高田郡のうち現在の美土里町から高宮町西部一帯に比定される建久2年10月日の長講堂所領目録に「吉茂庄」と見え,元三雑事・節器物・三月御講砂7両などの所役を負担する長講堂領荘園であった(島田文書)後白河法皇の没後は宣陽門院領庁分荘となっている(同前)建保2年2月17日の平親範置文案によれば,領家職は平親範が掌握し,その曩祖平宰相親信が建立した尊重寺の寺用分に充てられていた(洞院部類記所収文書)元応元年大社・小比叡社社家注進状には,「安芸国吉茂社 当社領〈毘沙門堂 内大臣〉」とあり,権祝友仲の奉行と記されているように,日吉社も領家職の一部に関与していたことがわかる(続群2下)その後,応永4年3月の長講堂領目録写に,宣陽門院の庁分として「安芸国吉茂庄 毘沙門堂殿 年貢米百石」とあり,この時期においても長講堂領荘園として年貢を負担している(集)また,文明17年11月23日の将軍足利義尚御判御教書案では吉茂上下荘が,毘沙門堂忠承禅師に対して安堵されている(三千院文書)毘沙門堂とは,平親範が尊重寺・護法寺・平等寺の氏寺3か寺を出雲寺の地に移建統合し毘沙門堂となしたものであるそのほか,建武3年11月26日の足利尊氏寄進状に「吉茂郷」の名が見え,足利尊氏が本圀寺造営料として寄進している(本圀寺文書)建武3年3月8日の桃井義盛下文には「吉茂庄内池田村三分一地頭職」が吉川経久に(吉川家文書),文和元年12月27日には吉茂上荘内池田村が内藤教泰に(閥閲録58),それぞれ預け置かれているまた文明3年正月30日の細川勝元感状,同年3月11日の武田信賢感状によれば,当地は石見国阿須那を本拠とする高橋氏の勢力下に入っていた(同前126)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7617691
最終更新日:2009-03-01




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