ケータイ辞書JLogosロゴ 仲村郷(中世)


高知県>春野町

 南北朝期〜織豊期に見える郷名。吾川郡のうち。暦応3年正月28日の堅田経貞軍忠状に「大野・中村名主庄官以下凶徒等数千騎,寄来陣取于潮江山之間」とあり(下元家文書/古文叢),北朝方についた細川定禅の大高坂城攻略に際して,当地の土豪層が南朝方にくみしたことがわかる。貞和2年9月20日の法印有俊の譲状には同4年2月20日の追記として「一通 綸旨 土左国大野・仲村国衙年(貢脱カ)御寄進事」とあり(醍醐寺文書/大日古19-1),当地の国衙年貢が,この頃すでに醍醐寺に寄進されていたことがうかがえる。また年月日未詳の醍醐寺方管領諸門跡等所領目録には足利義満から賜った旨の押紙があり,「一,左女牛若宮別当職 社領土左国大野・仲村両郷」と見え,南北朝末期〜室町期頃には京都左女牛八幡宮の社領となっている(同前)。なお同様の足利義教・義政の目録が残り,応仁・文明年間頃まで室町将軍家からの安堵が行われていた。また室町期のものと推定される年未詳の六条八幡新宮放生会用途注進状には,大野郷とともに「仲村郷」と見え,六条八幡新宮社の8月の放生会の用途のうち,米のほか砂車力・畳・相撲浴衣布・相撲饗膳等々を負担しており,「甲成〈一井二両・竜口三両〉」と記された部分には「土左国中村内」の異筆がある(石清水文書/大日古4-6)。なお鰐口銘には当郷名が散見し,応永9年10月15日の長浜若宮八幡宮の鰐口銘に「土州仲村郷若宮常住也」,同年11月1日の田井中島観音堂のものに「吾川郡中村郷柏尾山観勝寺」,同21年閏7月16日の長浜島宮神社のものに「吾川郡仲村郷島宮」などと見える(県史考古資料)。また永享5年8月15日の石清水八幡宮駕輿丁前床神人交名には「中村郷 次郎」とあり(石清水文書/大日古4-6),次郎は当郷の神人かと思われる。織豊期に入り当郷では天正16年から同17年にかけて検地が行われた。天正16年の長浜村地検帳(2冊)に「土佐国吾川郡中村郷之内長浜御地検帳高」,天正17年の仲村郷喜津賀西分地検帳に「土州吾河郡仲村喜津賀西分地検帳」,同年の喜津賀東分地検帳(2冊)に「土佐国吾河郡仲村郷喜津賀東分御地検帳之事」,同年の仁ノ村西畑地検帳に「土佐国吾河郡仲村郷仁村西畑地検帳之事」,同年の仲村郷森山地検帳(2冊)に「土佐国吾河郡仲村郷森山地検帳之事」などと見え,当郷は長浜村・喜津賀西分・喜津賀東分・仁ノ村西畑・森山に区分されている。その郷域は現在の高知市南西部の長浜・浦戸・御畳瀬・横浜・種崎から春野町南部の東諸木・西諸木・秋山・仁ノ・西畑・森山などに比定される。なお江戸期には「南路志」に中村郷として,利岡・板川・鴨川・伊西原・蕨岡・若藤・岩田・敷地・田之川・藤・浅尾(麻生)・秋田・安並・佐岡・観音寺・宇山・不破・津ノ崎・古塚(小津賀)・井沢・竹島(高島)の21か村が見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7617965
最終更新日:2009-03-01




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