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- 守部荘(中世)とは
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守部荘(中世) 鎌倉期~室町期に見える荘園名添下郡のうち①守部荘摂関家(近衛家)領のちに一乗院門跡寄所建長5年10月21日付近衛家所領目録(近衛家文書/鎌遺7631)に「観音院領大和国守部庄・高野山領紀伊国浜中庄不及進止之間,不入之」と見え,一時期近衛家から観音院に寄進されていたが,この当時は退転していたことが知られるその後,一乗院門跡の知行するところとなり,貞和3年2月日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)には添下郡の一乗院方荘園として「守部庄・七町六反大」とあるまた至徳3年6月9日付一乗院良昭維摩会講師段米催状(岡本文書)にも「守部〈七丁六反大〉」と,寺門・門跡から段銭・段米などを賦課されたなお応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)には寺門方荘園として当荘が記される②守部荘春日社夕御供料所永享8年の旬及夕御供催進記録(春日大社文書6)に「守部庄〈地下相尋重可申候〉」とあり,毎月17日~19日の夕御供を春日社に備進する定めであった |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」