ケータイ辞書JLogosロゴ 頴娃郷(近世)


鹿児島県>開聞町

 江戸期〜明治22年の郷名。薩摩国頴娃郡のうち。鹿児島藩直轄領。外城の1つ。1郡1郷で,郡【こおり】・別府・御領【ごりよう】・牧之内・拾町(十町)・仙田の6か村からなる。近世初期には8か村であったが,正保4年大山村,慶安3年岡児ケ水村が山川郷につき6か村となった。享保11年別府村が御領村から分立して7か村となったが,延享元年,池田村が今和泉郷に割かれ再び6か村となり,同時に仙田村のなかから上野・尾下の2方限が利永村となって今和泉郷につけられた。阿多カルデラ壁上にある城山【じようやま】から4km離れている。麓は,鹿児島から約60kmの地にあたる。文禄検地では頴娃郡1万4,939石余は島津義弘蔵入分となり(島津家文書),慶長5年庄内戦争の結果,伊集院忠真が頴娃1万石の領主となった。頴娃(麓)は忠真がつくったと伝えられ,忠真は6か月在任ののち帖佐へ移封された。麓と隣接する野町は郡村に属した。庄屋役所は,郡村の大窪,牧之内村の芝原,御領村の九玉,別府村の松永にあった。正保3年および寛文4年の頴娃郡は,村数7,石高1万5,939石(県史)。所総高は,元禄11年8,040石(里改帳),文政7年9,468石(旧跡帳)。「列朝制度」によれば,大山・岡児ケ水村とともに,高1万2,883石余,田畑屋敷3,831町余うち田方225町余・畑屋敷3,606町余,籾1万2,865表余,大豆2万2,444表余,上木籾26表余。「薩藩政要録」によれば,地頭島津要人,郷士惣人数997,郷士人体426,所惣高9,952石余,郷士高1,398石余,寺高232石余,用夫3,032,野町用夫22,浦用夫1,157。「要用集」では,地頭島津蔵人,郷士総人数970,郷士人体447,所総高9,611石余,郷士高1,409石余,寺社高235石余,用夫2,477,野町用夫10,浦用夫1,393。「地理纂考」では,高9,639石,戸数3,756,人口1万5,676うち士族2,139・平民1万3,537。明治2年1小隊の常備隊が設置,小隊長・半隊長・分隊長が任命されて軍政がしかれた。明治4年鹿児島県に所属。大区小区制では第17大区となり,15の小区に分かれた。戸長役場制では各村ごとに戸長が置かれた。「県地誌」によれば,田251町・畑5,556町余・切換畑334町余・宅地277町余・林2,582町余・山林266町余・柴草生地614町余・塩浜3町余・秣場99町余。戸数は本籍4,399戸うち士族524・平民3,875,寄留25戸,社26戸。人口は1万9,265うち士族2,230・平民1万7,035。牛2,342頭・馬2,325頭。和船291艘うち500〜200石5,200〜50石37,50石未満5,荷舟12,漁舟257。公立小学校14,生徒男950・女92。物産は,サバ13万尾ほか魚・米1,823石・麦3,177石・粟3,042石・ソバ1,739石・大豆1,271石・甘藷1,457万斤・煙草1万9,000斤・菜種子3,880斤・甘蔗3万7,000斤・製茶1万9,754斤・食塩88石。明治5年指宿【いぶすき】(のち山川)郡治所,同12年からは給黎【きいれ】郡知覧郡役所に所属。同14年別府村から上別府村が分村(県地誌)。なお「郷土誌」は明治16年8月としている。明治22年当郷7か村は穎娃村となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7618378
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ