ケータイ辞書JLogosロゴ 大村(中世)


鹿児島県>薩摩町

 室町期〜戦国期に見える村名。薩摩国祁答【けどう】院のうち。「応永記」の応永18年の条に「去程ニ久豊・久世一ツニ成玉フノ由聞得ケレハ,頼久一人ニ成大綱ト,大村・入来・山北ヲ去テ伊集院ニ引退ル」とある(旧記雑録)。江戸期の「三国名勝図会」大村条の大村古城の項に「初め大前氏の居城にして,康永の比,大村太郎居城と,旧記に見ゆ……其後渋谷家祁答院の一族大村又次郎諸重,居住す」と見えており,鎌倉期の初めごろ祁答院地方の豪族大前氏の一族滝聞道房が,上手村の滝聞城から移って居城し,子孫大村氏を称したという。その後大前氏の衰亡につれ大村氏も衰微,室町期に入り渋谷祁答院8代久重の二男諸重が大村を領有し,大村城に拠って大村氏を称した。大村城については「文明記」の文明17年9月5日条に「両所之軍勢共為一所,懸野伏於大村城」とある(旧記雑録)。別名永福城ともいい,現在の祁答院町下手の城山に比定される。戦国期には三州を統一しようとする島津氏と,北薩の雄渋谷氏は激しく抗争し,文明17年9月島津忠昌は帖佐領主島津忠廉らをして祁答院重慶を討たしめた。同月13日忠廉軍は大村城を攻め,翌14日城主大村諸重の子重知は城を出て攻撃,激しく防戦し21日忠廉は軍を引揚げた(大村小学校百周年記念誌おおむら)。その後祁答院氏が断絶するや大村氏も衰微し,永禄10年ごろ当地は島津氏領となり,比志島国守が地頭に任ぜられ,天正8年8月19日の「肥後合戦御陣立日記」には大村地頭として白浜次郎左衛門の名が見える(旧記雑録)が,文禄4年の三州内所替により北郷久蔵が領治し近世に及んだ。なお,永正2年12月の渋谷重貴寄進案には「祁答院大村名」と見え(祁答院旧記・観樹院文書/薩摩国新田神社文書),大村名とも呼ばれたことがわかる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7618381
最終更新日:2009-03-01




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