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開かずの間
【あかずのま】


徳川綱吉は、江戸城にある「開かずの間」で殺された?

徳川五代将軍綱吉は、「生類憐みの令」によって犬公方(いぬくぼう)と呼ばれ、無能な将軍として扱われがちだ。しかし、それも将軍となって権力を手にしたために、次第に自分を見失っていった結果だという説がある。綱吉は、三代将軍家光の四男である。四代将家綱が四〇歳で死去すると、次男早世していたため、館林二五万石城主だった綱吉将軍の座に就くことになった。彼は三五歳で将軍の座に就くやいなや、いくつかの重要な案件果断判断を下しており、館林城主時代学問好き評判が高かったためもあって、期待される青年将軍だったようだ。それがやがて学問偏重、さらには望めば何でも手に入る立場から享楽傾向示すようになったという。将軍側用人として権力振るうことを許され柳沢吉保も、綱吉館林城主時代小姓として稚児趣味相手をした仲が、寵愛のもとになっているともいわれる。年を重ねるにつれて偏執的、享楽性向強めていった綱吉老後は、周囲腫れ物に触るよう扱うしかなかったようだ。誰かに襲われるという幻覚に悩まされ、自分の知識薬を処方して服用し、医者を遠ざけたというような記録が残っているからである。最後流行していた麻疹のために命を落としたと『徳川実紀』は記録するが、うわさ話記録した史料には刺殺説も語られている。しかも刺殺犯は正妻の鷹司信子だとも書かれている内容は、綱吉後継将軍柳沢吉保の子を指名しようとしていることを知った信子が手にかけたというもので、その場所大奥にある「宇治の間」だったという。この宇治の間は、開かずの間として使われることもなかったのだが、その後火災大奥焼け落ちても、再建のときにつくりなおされて蘇よみがえったという話もある。それがまた、綱吉刺殺部屋だからだという理由にもなっているのである。




東京書籍
「雑学大全2」
JLogosID : 14820004