夏目漱石①
【なつめそうせき】
朝日新聞入社を決めたのは、給料が高かったから
明治から大正初期に数々の名作を残し、現在に至るまで多くの人々に愛され続けている文豪、夏目漱石。一九〇四(明治三七)年、文章会「山会」で『吾輩は猫である』を発表。翌年、『吾輩は猫である』を長編にして「ホトトギス」に連載。一九〇六(明治三九)年、『坊っちゃん』『草枕』を発表した。一九〇八(明治四一)年に『三四郎』、一九〇九(明治四二)年に『それから』、一九一四(大正三)年に『こゝろ』をそれぞれ「朝日新聞」に連載。一九一六(大正五)年、「朝日新聞」に『明暗』を連載中、未完のままに胃潰瘍で死去した。漱石は、第一高等学校講師や東京帝国大学講師をしながら小説を書いていたが、一九〇七(明治四〇)年、東大と一高を退職し、専属作家として朝日新聞社に入社した。名誉ある東京帝大の先生を辞めて作家一本でやっていく……というと、小説を書くために安定収入を捨てたというカッコいいイメージがあるが、漱石の場合は違ったようだ。朝日新聞社のほうがずっと好条件だったので転職したのである。朝日新聞社からスカウトされる前に、読売新聞社から専属作家にならないかという誘いがあったようだが、月給六〇円だったので断ったそうだ。その翌年に朝日新聞社は、編集長でさえ月給一三〇円のところを、月給二〇〇円という破格の報酬を提示した。だが、漱石はすぐには応じなかった。月給は二〇〇円でいいが、盆暮れの賞与を合わせて月給の四倍ぐらいほしいと交渉したのである。そして、朝日新聞社はこれに応じた。また、漱石は、単行本の版元からもらう印税も交渉で釣り上げ、三割の印税をもらっていたという。普通は一割だから、おそらく近代日本作家のなかでトップクラスの印税だろう。ただし、小説のなかでもよく出てくるように、彼がお金を必要としていたのは、貧乏な実家や妻の実家、親戚などを援助するためだったので、金に困らなくなった晩年は気前よく他人のために金を使ったという。
| 東京書籍 「雑学大全2」 JLogosID : 14820643 |