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美人
【びじん】


国を傾けるほどの中国美人列伝

中国美人時代順に挙げていけば、妲己、褒?、西施、虞妃(虞美人)、王昭君、貂蝉、楊貴妃となる。これに則天武后(武則天)と西太后を加えれば、中国美人の勢ぞろいだ。まずは傾国の(国を危うくするような)美人だが、妲妃は伝説的な美人であると同時に悪女代表でもある。殷の紂王(帝辛)の妃で、紂王とともに酒池肉林にふけり、殷が滅ぶ原因をつくったといわれる。褒?は、美人のために周の幽王献上され、後に后になった人だ。褒?はほとんど笑うことがなかったといわれる。幽王はおもしろいこと楽しいことを何くれとなくあてがっても、いっこうに笑わない。あるとき、幽王間違って諸国軍隊召集命令したことがある。何事が起こったかと慌てふためいて王城向かってくる軍隊のさまを見て、褒?がかすかに笑った。幽王はまた褒?の笑いが見たくてウソ命令何回も下した。そのうち、本当に敵が攻めてきて幽王軍隊召集したとき、諸国軍隊はまたウソなのだろうと思って出動を渋っているうちに、敵兵のために王城が乗っ取られてしまったという伝説伝わる。褒?も傾国美人である。西施春秋時代の呉越の抗争に関わった美女である。結局は呉が滅びる原因をつくったので傾国美女となるが、こちらのほうは政略によって越王勾践から呉王夫差に送られた美人だ。西施にぞっこんとなった夫差政治顧みなくなり、呉の政治乱れた。これに乗じて勾践夫差を滅ぼしてしまった。貂蝉は、後漢末の混乱期に董卓呂布という二人政治家の仲を引き裂こうとして政略的に送られた美人である。二人の間で貂蝉をめぐる争い起こり最終的に董卓が滅ぼされてしまう。これも傾国美人だろう。一方、虞妃、王昭君楊貴妃には悲しさがつきまとう。虞美人は、秦が滅んだ後、漢の劉邦覇権を争った呉の項羽愛人だ。項羽何度も何度も戦いには勝ちながらも、最後は垓下で劉邦軍に囲まれてしまう。足手まといになった虞美人殺して、項羽勝ち目のない戦いに打って出て、壮絶戦死を遂げた。王昭君は漢の元帝の後宮にいた美人だ。後宮には一人皇帝のために何人も女性が控えている。元帝は肖像画を見てその日相手を決めていた。後宮美女たちは、こぞって画家賄賂を贈って美人に描いてもらおうとするが、王昭君自他ともに認める美人だから、賄賂を贈ろうともしなかった。そのため、美人に描いてもらえず、結局当時漢と争っていた外国の王に、平和代償として贈られてしまう。楊貴妃は唐の時代人である。玄宗皇帝は、息子の妻妾(めかけ)だった楊玉環があまりにも美しいので横取りして自分の後宮入れた。後に「貴妃」となったため、楊貴妃呼ばれるようになる。玄宗政治興味を失ったとき、安史の乱起きる反乱軍に押されて逃亡する途中で玄宗を守っていた兵士から楊貴妃殺害要請され、やむなく楊貴妃殺してしまった。則天武后西太后は、ときの皇帝に見初められて出世し、最後政治左右す力をつけた美人たちで、女傑といっても差し支えないだろう。則天武后の名は武照である。唐の太宗の後宮に入ったが、太宗には気に入られなかった。太宗が亡くなった後、当時のしきたりにしたがって寺に入って尼になった。普通なら一生尼としての生活を送るのだが、武照は太宗の息子第三皇帝高宗のお目にかなって、例外的に高宗後宮入ることができた。後はトントン拍子出世して皇后になり、産んだ子どもたちが皇帝になった。しかし、武照はそれでも飽きたらず、息子を廃して自ら皇帝になり周(武周)王朝開いた中国史上唯一の女帝になったのである。この王朝則天武后亡くなると廃されて、唐王朝が復活することになる。西太后は、いまから約一〇〇年前の清王後期活躍した女傑だ。皇帝別荘だった円明園下級女官として働いていたとき、咸豊帝文宗)に見初められて後宮迎えられ妃となったといわれる。咸豊帝死後自分の息子皇帝になったので、西太后呼ばれるようになった。東太后咸豊帝皇后皇太后になった後にこう呼ばれた)の死後実権握り清朝末の政治関与した。日清戦争のときの清朝最高権力者である。一九〇八年に亡くなったが、わずか三年後の一九一一年に辛亥革命が起こって、清朝滅亡した。




東京書籍
「雑学大全2」
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