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宮本武蔵
【みやもとむさし】


巌流島決戦は賭けの対象にもなっていた?

江戸時代初期剣豪として名を馳せた宮本武蔵数多果たし合いのなかで、最も名高いのが「巌流島決戦」だ。近畿から関東にかけて剣名の高かった武蔵が、西国での剣名を保っていた佐々木小次郎を討ち負かしたこの勝負で、武蔵剣客としての名は日本一として決定的なものとなったのである。後世になって書かれた武蔵小次郎決闘のありさまは、様々なエピソード伝える。その集大成として知られるのが、吉川英治著『宮本武蔵』だといえる。しかし、この書をはじめとする多くの作品伝える決闘エピソードのほとんどは、『二天記』という史料からだけ生まれたものだ。『二天記』が武蔵死後一〇〇年以上たってから書かれたものであることを考えると、かなりの脚色が加わっているだろうといわれてきた。そんななか、一九八八(昭和六三)年、巌流島での決闘公式のものとした細川家の当時家老日記発見された。それによれば、小次郎武蔵木刀によって倒れたものの、息を吹き返したところを、潜んでいた武蔵弟子たちによって殺されたのが真実だと記す。ただ、この日記にも裏がある可能性高い小次郎殺したかったのは、実はこの決闘公式試合として立会人となった細川家だったかもしれないからである。小倉藩主となったばかりの細川忠興は、藩の剣指南役として雇った小次郎名声高まり、藩内に勢力争い生じるのを恐れたのだ。江戸時代初期の混乱世相ならではの発想といえる。だから、武蔵との立ち合いに名を借りて、武蔵小次郎を倒してくれれば思惑通り、たとえ小次郎が勝っても、密かに「相打ち」などの名目小次郎葬る計画を立てていたという。そのせいだろうか、武蔵小次郎決戦の話は早くから周辺地域に広まっていた。おそらく細川藩が大義名分をつくろうとしたのだろう。おかげで二人対決は、剣の道とは無関係の町人たちの間でも評判になっていた。その結果武蔵小次郎のどちらが勝つかが賭け対象になったほどだったという。




東京書籍
「雑学大全2」
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